エゼキエル書18章21~23節
テサロニケの信徒への手紙一5章21~22節
「全てを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」。あることが良いものか悪いものか、吟味をして、良いものを大事にし悪いものからは遠ざかる。何を基準にしてその吟味の判断をすればよいのだろうか…。先ほど読みましたエゼキエル書の言葉「悪人であっても、もし犯した全ての過ちから離れて、私の掟を悉く守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」から考えると、掟を悉く守ったかどうかがその吟味の判断基準になってる様にも読めます。しかし、私たちが「掟を悉く守る」などということがそもそも出来るのか、そう考えると、もっと別の所にあるようです。
コリント一3章10節以下(p.302)の個所に、私たちの仕事は終末の日には火で精錬されて各々の仕事がどんなものであるか吟味されるという事が書いてあります。13節に「各々の仕事がどんなものであるかを吟味する」とあります。私たちの仕事と言ってもいいし、行って来た業と言ってもいいし、もっと広くは、生きてきた人生と言ってもいいでしょう。それが火で精錬される。そうなったら私たちの人生の何がそこに残るのでしょうか。燃えかすだけが残るのでしょうか。
15節途中から読みます。「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。あなた方は、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなた方はその神殿なのです」。神殿というのはそこに神が臨在したもうことを象徴する建物です。でもここでパウロは、建物ではなく私たち自身が、神の霊が住んでおられる神の神殿なのだ、という訳です。キリストが私たちの内に生きていると言い換えてもいい。そのことを知っていますか、弁えていますか、このことを吟味しなさいとコリント教会の信徒たちに問いかけ、吟味させ認識させます。
同じことを別の聖書箇所から味わいたい。ルカによる福音書15章11節以下(p.139)。ここには吟味という用語は出てきませんが、主イエスが私たち自身について、問いかけ、吟味させ認識させます。ある父親がいた。息子が二人いて、弟が自立したいと相続財産をもらって旅に出る。でもお金があるので、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまった。丁度そのような時に飢饉が襲って、食べるものも無くなった。17節以下「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、私はここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父の所に行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と』。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません』。
息子がここまで口にした時、父親は次に予想された言葉、すなわち
「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」の言葉を言わせないかのようにして息子の発言を遮って言います。「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』」。ここで父親は、息子、この弟に吟味させています。何を? 自分自身が誰であるかということを。自分が雇人の一人なのか、息子なのかということを。そして祝宴に招くこの人が、自分の雇い主なのか、父親なのかということを。それを吟味させています…。「私はお前の父親だ。お前は私の息子だ」。
この吟味のプロセスにおいて、この弟は、自分を息子として父親に向き合って悔い改めます。良いものを大事にし、悪いものから遠ざかる訳です。ここで悔い改めたのです。一言加えますと、17節の我に返って反省したかに見えるその時が悔い改めたのではありません。我に返っただけで、父親に向けて方向転換していません。
この譬え話には兄も登場します。その日も、一日畑で働いてやるべきことをちゃんと成し遂げる立派な兄です。
25節から「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』」。 これを聞いて兄は「それは良かった」と弟の無事戻って来たことを喜びません。
「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた…。
「お前の弟が無事戻って来たんだぞ」と。「しかし、兄は父親に言った。『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』。
ここでの兄の言い分は明らかです。真面目に毎日、そしてこの日も良いことをしている兄の主張は頷けます。しかし、一つ、大きな問題があります。そこで父親は、問いかけて兄に吟味させます。
「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」。何を吟味させているのでしょうか。一つは弟は父親の息子であり、お前の弟だということ。もう一つは、兄は自分をどう思っているのか、そして父親をどう思っているのか。『この通り、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか』。何を言っているかというと「これだけちゃんと良く働いたのだから、特別賞与があってもいいはずだ」。これは労使交渉みたいなものです。これは雇い人が雇い主に向かって言う言葉です。
目の前にいる父親に向き合わず、自分も息子になっていない。それで弟も自分の弟になっていない。それで父親は吟味させています。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。お前は私の息子だ』。
父親は、自分が父親として心向けているのに雇い人であることを主張するこの二人に対し、そのハラワタは怒りで煮えくり返ったとことでしょう。でも、その怒りは、先週の言葉で言えば、悲しみに満ちていた。でも『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ祝うのは当たり前ではないか』。悲しみを祝宴の喜びに転換する。そこに招く。怒りから悲しみへ、悲しみから喜びへ。この譬え話をお語りになったのは主イエス・キリストです。主イエスは私たちにも祝宴を開いていて下さいます。パンと杯を用意して下さいます。その十字架の愛があるから、祝宴の喜びへと私たちをお招きになります。私たちは、この祝宴の開かれ、神の霊が住む、神の神殿です。
最後にエゼキエル書のみ言を味わいます(p.1322)。18章21節から。「悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、私の掟を悉く守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。彼の行った全ての背きは思い起こされることなく、行った正義の故に生きる」。私たちは掟を悉く守り切ることは出来ないでしょう。あの兄だって、掟を守る立派な働き人でしたが、却ってそれ故に、父と息子たちの関係に置くことは出来なかった。「私の掟を悉く守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる」とありますが、正義と恵みの業を行うのは、我々でなく神様御自身であります。その正義は私たちの正義ではなく、キリストの正義です。この正義の故に、この正義を土台として私たちは罪人であるのに神の子たちとされて生きるものとなります。主なる神はこう言われました。 「私は悪人の死を喜ぶだろうか。喜ばない。そして、彼がその道から立ち帰ることによって(父なる神に立ち帰ることによって)、生きることを喜ばないだろうか。喜ぶ」。
そして30節以下、「『それ故、イスラエルの家よ。私はお前たち一人ひとりをその道に従って裁く』と主なる神は言われる。『悔い改めて、お前たちの全ての背きから立ち帰れ。罪がお前たちを躓かせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」。
兄はどう答えたのでしょうか。そして私たちはどう答えるのでしょうか。父親を父なる神として吟味し、自分を神の子として吟味し、弟を自分の弟として、また自分の隣人として吟味出来ているのでしょうか。そのように吟味し、主イエスが十字架にまでかかって私たちに与えて下さった、主イエス・キリストの正義と愛を良いものとして大事にしていくことが出来ますように。私たちは神の霊が宿る神の神殿です。今日も、主イエスは私たちのために祝宴を備えて下さいました。あなたの御心に相応しく自分を吟味してこの祝宴の恵みに与らせて下さい。