エレミヤ三一・三一~三四
Ⅱコリント三・一四~一六
今日の聖書には神様のお約束=契約が書いてあります。 「私は彼らの神となり、彼らは私の神となる。私は彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ三・三三~)。
イエス様は、十字架に架けられたとき、十字架の上で祈られました。 「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ二三・三四)。その時のイエス様のお心は形と色で言えばハートで赤い色……。「私はあなたの神様になりましょう。私があなたの罪と罰を十字架で代わりに背負いますよ、そうして私はあなたの悪を赦し、その罪を心に留めることはしません。その時あなたは私の民となるのですよ」。そのようなお心で祈られました。一方、イエス様を十字架につけて殺そうとした人たちの心は、ギザギザで黒い色……。この人たちは自分たちがこう祈って戴いていることを知らない。その心が本当の意味でイエス様の方に向いていないからです。イエス様のお心に包まれ、イエス様の方を向いて、彼らの心が丸い柔らかい色になればいいですね。
さて皆さんは、十戒を知っています。ここに、今はこの紙に書いてありますが、最初は神様が石の板に刻まれました。神を愛すること、隣人を愛することです。人々は「これは大事なことが書いてある。これは大切にしなければならない」と石の板を大祭司しか入れない神殿の特別な所に置きました。でも人々はいつの間にか勘違いして、この石の板さえあればいいや、この石が大事だと思って、神のお約束のお心を忘れてしまいました。本当は、石に刻まれた言葉をいつも新しく教えてもらって忘れないことが大事。大事なのは、石に刻まれたお言葉が表している神様のお約束のお心だからです。であるのに、神様がイスラエルの人たちの神様となり、人々を御自身の大切な民にして下さったことを、人々は忘れてしまいました。
そこで、神様は新しいお約束=契約をして下さいました。契約の中身は同じです。私があなた方の神となり、あなた方は私の大切な民となる。新しくなったのは、このお約束の言葉=そのお心を石の板に記すのではなく、みんなの胸の中に授け心に記す(エレミヤ三一・三三~)。その時には、人々は隣人同士、兄弟同士「主を知れ」と教えることはない。十戒はただそれをすればいいということが書いてあるのではなく。「私があなたたちを愛して、あなたたちの神となり、あなた方は私の大切な一人ひとりになるのですよ、だからあなた方は私を愛しみんなも愛し合いなさい」という約束のお心が書いてある。神様のお心ですから、皆さんの心に通じないといけません。神様のお心から皆さんの心にです。だからみなさんの胸の中に授け、心に記して下さる。
皆さん、教えてもらわなくても、皆さんの胸の中にあって知っていること、ありますよ。何だか分かりますか? 皆さんは生まれたその日、お母さんに抱っこされました。お父さんも抱っこしたかな。皆さんは、誰かからあの人があなたのお母さんですよ、あの人があなたのお父さんですよ、と教えてもらいましたか。誰からも教えてもらわなくても、お母さん、お父さんを知っています。幼子の時から毎日、ギュッと抱っこしてもらっていたからです。頭で知っているのではありません。皆さんの胸の中に、心の中にもう記してあります。
イエス様は、十字架で「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。ハートのお心で、ギュッと私たちを抱きしめておられます。ただそれを人々は気が付かない。気が付くためにどうしたらいいのでしょうか。イザヤ書にこうあります。 「耳を傾けて聞き、私のもとに来るが良い。聞き従って、魂に命を得よ。私はあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみの故に」(イザヤ五五・三)。神様が「私のもとに来るが良い」と招いて下さっています。私たちはこうやって礼拝に集います。神様のもとに集います。イエス様の所に集っています。ここでしていることは、聖書を開いてイエス様のお心に耳を傾けることです。
パウロが語っています。しかし主の方に向き直れば、覆いは取り去られます(Ⅱコリント三・一六)。もし、聖書を閉じて、覆いを掛けてしまえば、聖書の言葉に耳を傾けることも、主イエスの方に向くことも出来ません。私たちは礼拝で覆いを取って聖書を開き、イエス様が祈っていて下さること、私たちの神様になっていて、私たちをギュッとしていて下さることを、心に刻んでいます。私たちは新しい契約の民です。