イザヤ四三・二四~二五
ルカ 七・三六~五〇
今日は、行為義認の話をします。と言いましても信仰義認と対峙される行為義認、ある人が立派に律法を守ったとか善い行いをしたのでその人が義と認められるという行為義認ではなく、行為そのものが義と認められるという行為義認です。 先週読みましたマタイ福音書(二六・六~)に登場した、主イエスの頭に香油を注ぎかけた女の人。この非常識な行いを見た周囲の弟子たちは、憤慨して言いました。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って貧しい人々に施すことができたのに」。女の人は 弟子たちから叱られ責められて、反論も出来ず居たたまれなくなりました。ところが、この非常識な、いわば良くない行為を、主イエスが「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ」とお語りになって、この行為を良い行為として認めて下さいました。 今日味わいますルカ福音書の記事も、同じような場面です。マタイ福音書のあの女の人と同じ人なのかどうか、元は同じ出来事をマタイ福音書はマタイなりに、ルカ福音書はルカなりにアレンジしたのかは分かりません。それはともかく、ルカ福音書では、この人は、この町で一人の罪深い女がいた(ルカ七・三七)と記される程のこの町ではみんながそう認識していた人でした。そして、ある女の人が香油の入った拙稿の壺を持ってきて、後ろからイエスの足もとに地下より、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗ったのでした。この行為も又、常識的には非難されるべき行為です。しかもこの人は罪深い女と見られている人です。 この女の人を見たファリサイ派の人、シモンは主イエスに対して心中でこう思う。「この人(主イエス)が もし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」。
主イエスはシモンに言いました。 「この人を見ないか。私があなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ七・四四~)。こう仰って彼女の行為を認めたのでした。
この女の人がこれをするに至った背景がありました。その背景は続く主イエスの言葉から推察できます。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。この女の人は罪深い女と言われている程の人でしたから、自分でも罪深いと認めていたことでしょう。その分、自分は赦されねばならない、と赦しを求め、そしてきっと、これまでイエス様には大切にしてもらえる確信、赦してもらえる確信があったのでしょう。それで精一杯、イエス様の愛にお応えたいしたいと思いました。主イエスは彼女の香油を塗る行為の背景にある思いまで受けとめて下さったのでした。 シモンはどうでしょうか。主イエスはシモンを責めているのではないと思います。シモンは、一緒に食事をして欲しいと願って主イエスを自分の家に招き入れたのです。それなりの思いはあった訳です。ただ主イエスから見ると「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」ということであった。もっとも主イエスがお赦しになるのに、多い少ないがあるとは思えません。罪深い女に対しても、シモンに対しても、どちらに対しても、無限大に赦しておられると信じます。 イザヤ書に 「あなたは香水萱を私のために買おうと銀を量ることをせず、生け贄の脂肪を以て私を飽きたらせようともしなかった。むしろ、あなたの罪のために私を苦しめ、あなたの悪のために、私に重荷を負わせた」(イザヤ四三・二四)。香水萱というのは香の原料になる植物の萱のことのようですが、香水とか香油そのものと読み替えてもよいでしょう。主に献げるためのものを用意しない人々の姿を語っています。その姿は罪を赦したもう主への信仰が薄いことを現しているようです。 そのような民に対して、主は、お前のような者は、もう赦してやらない、とお考えになったのでしょうか。「私、この私は、私自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と言われました。私たちは、この主なる神、主イエスの前に招かれています。 あの女の人とシモンに話を戻しますと、神は誰に対しても赦しておられる。ただその赦しを受けとめる側に、多い少ないがあった。罪深い女の人の方が、赦されることを、多く大きく受け取ることが出来ました。
その彼女に対して主イエスは「あなたの罪は赦された」と宣言なさいました。加えて「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。主イエスが赦して下さることを大きく受けとめるその思いを彼女の信仰と認めて下さいました。この信仰が背景にある香油を塗る行為を、主イエスは併せて義と認めて下さいました。
ところで、この記事を味わいながら思うことがあります。全ての人の全ての罪を主イエスは赦しておられる。十字架の贖罪は完全なものです。十字架の主イエスを、私たちは、信じています。ただ、シモンとこの女の人の姿、そしてその背景にある信仰に思い向けると、自分はどっちだろうかと思う。自分なり信じている、礼拝にも集っている。そして主イエスから問われたら、どちらでしょうか。もし自分がシモンの方だ、と思うなら、どうすれば良いでしょう。 この主イエスを見ながらシモンや同席の人たちは「罪まで赦すこの人は、一体何者だろう」と考え始めた。考えるに値する問いかけです。これを考え始めることに、彼らの信仰の深まりの可能性の第一歩があるように思います。 あの女の人は、主イエスのことを知って以来、絶えず日頃から、この方は誰? どなただろう?と考えそして、この方は赦して下さる方だ、と思いを深めていたのではないでしょうか。罪深い自分の姿を否応なしに突きつけられていた彼女だからこそ、考えるべき事を考え、悔い改め、主イエスを愛する感謝の行為に至りました。彼女が罪深い女であることは、赦しを大きく求めるスタート地点になりました。 私たちはもしかすると、彼女のように自分を罪の人であると、本気で、考えたくないところがあります。その結果、信仰も信仰の行為も中途半端なのかも知れません。だからそれでは駄目だと責めているのではありません。『A・D・ヘールに学ぶ』に(四〇頁~)、ヘール師の日本語の上手でないことを越えて、福音の真理が伝えられて人々が神と繋がる記事があります。そして、教会の業、信仰の業は正に聖霊の御業であって人間の業ではない、と記されています。あの彼女が香油を塗ったのも、シモンたちが、この方は誰だろう、の問を持ち始めたのも、聖霊の導きなのではないでしょうか。私たちも、自分のことをシモンの方だなと思うなら、自分の欠けを責める以上に、聖霊の導きを求める所に立ちたい。そこから、主イエスへの問いかけが深まり、赦しを戴き、悔い改めも起こり、愛の行為=生き方も現れてきて、改めて恵みの世界に導かれるのだ確信します。