日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2023年9月10日 説教:森田恭一郎牧師

「福音を恥とせず信仰によって生きる」

ローマ一・一六~一七

「私は福音を恥としない」(ローマ一・一六)。 力強い言葉です。恥。どんなことが恥ずかしいですか。例えば、小学校一年生での初めての遠足、みんな新しいリュックサックなのに自分だけお下がりの古いリュックだった時、みんなのお弁当がおかずの沢山入った豪華なお弁当なのに自分のお弁当はそれ程ではなかった時など……。またクラスで自分だけが教会に行っていると、周りの友だちから「教会に行ってるの?」と言われて恥ずかしく感じることがあるかもしれません。恥とは他の人に比べて引け目を感じることです。

でも、それらは恥ずかしいことですか。神様が「それは恥ずかしいねぇ」と言われるでしょうか。本当に恥ずかしいのは、万引きするとか、誰かをいじめるとか、悪いことをすることです。それは神様の御前で恥ずかしいことだし、隠せません。

 

パウロの時代、ローマではみんな皇帝を崇めていました。でもパウロはキリストを拝み、キリストを告げ知らせ、キリストが下さった恵みを証しして生きたので、捕らえられ牢屋に入れられることもありました。でもパウロは「わたしたちの主を証しすることも、わたしが主の囚人であることも恥じてはなりません」(Ⅱテモテ一・八)。そして「私は福音を恥としない」と言い切ります。

なぜって「福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」。神様には私たちを捕える力があります。捕えると言うと、お巡りさんが悪者を捕まえて牢屋に入れるようなことを思い起こすかも知れません。神さまの力は反対です。私たちを捕えて救いへと導く愛の力です。

 

「福音には神の義が啓示されています」(ローマ一・一七)。神様の義とは正しさのこと。啓示されるとは明らかにされることです。それで、神様の正しさを光、啓示されるのを光が差し込んでくることとして考えてみましょう。朝、布団をたたむ時、カーテンを開けると朝の光が差し込んで来て埃がたくさん舞っているのに気付くでしょう。ちょうど光が差し込んでくるように神様の義、正しさが明らかになったら、あの埃のように人間の悪い所がよく見えてしまいます。バレバレです。でも…、神様はお巡りさんのように私たちを捕まえません。むしろ悪い所を全部、イエス様が背負って、代わりに神様の義をプレゼントなさいます。

プレゼントは、有り難うと言って戴くものですね。そして神様の義のプレゼントは受け取ると自分が悪い者なのに正しい者とされます。これが救いをもたらす福音の力です。プレゼントはご褒美とは違います。ご褒美はこちら側で何か善いこと手柄を立てなければもらえません。そして私たちには神様の御前で手柄をたてる力なんかありません。手柄をたてる力なんかないのに、プレゼントをただで戴きます。このプレゼントを戴くことを恵みと言います。人は恵みを戴いて、恵みによって義とされます。恵みによって救われます。

 

私たちに大事なこと三つ。人がこの福音の力、恵みによって救われるのは自分の手柄ではなく、いわば神様の側の手柄、御業です。イエス様が十字架にかかって罪を負って下さる。私たちの代わりに立てて下さるこの御業。これは私たちの外で私たちの知らない内に気づかない内に、イエス様が、イエス・キリストがして下さった。それでこれを知らずに気づかないままでいる人は多い。教会の私たちも、教会に来て洗礼を受ける前までは知らなかった、気づかなかった。教会に来て教えてもらい光が差し込んできて、埃だけではありません。神様の側に十字架の御業がある。そこに光がある恵みがあると気づいた。気づくこと、これがまず第一番目に大事なことです。

ここにプレゼントを持ってきました。今までプレゼントは向こうのキリストの側にありました。それを戴きます。開けてみます。開けてみると神様の愛。中にキリストの十字架。キリストの御業です。私のための立てて下さった手柄、御業があることに気づきます。私たちにとっては恵み。これを信じて、洗礼を受けます。信じて、信仰を通して、義のプレゼントを受け取りました。心の内に。洗礼を受けて信仰を通して向こう側にある恵みを私のための恵として戴く。これが第二番目に大事なことです。

もう一つ第三番目。 「正しい者は信仰によって生きる」(ローマ一・一七)。生きるのは信仰によって生きます。神様に感謝をささげたり、友だちを神さまに愛された者として大切にして仲良くしたりするのは、信仰によって生きる生き方です。

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