日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年11月11日 説教:森田恭一郎牧師

「福音が告げ知らされた」

詩篇139篇1~18節
ペテロの手紙一4章6節
皆さまと共に礼拝をささげることが出来ます事、とても嬉しく、また感謝を申し上げます。ペトロの手紙一を読み進めて参りました。今日は四章六節です。死んだ者にも福音が告げ知らされました。彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊に於いて生きるようになるためなのです。 何故こう言えるのかというと、キリストが一歩先を切り開いて下さったからです。先々週味わいました御言葉、キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きるものとされたのです(三・一八)。これは、肉体は死んでも霊だけは生き残るという霊魂不滅ではありません。人間としては死なれたが、神の御子として陰府において神の御業を為さったということです。
私たちはと言えば、神の御子ではありませんから、肉において死んで霊でも同じように生きることはありません。であるなら、神との関係で霊において生きるというのは、神様は私たちの存在を忘れ去ることはない、私たちの側が生きているか否かではなく、神様が私たちを忘れることなく記憶の内に覚えておられるということ。このことにおいて私たちは生かされる訳です。
以前「人は二度死ぬ」という映画を見ました。一度目に死ぬのはいわゆる地上の人生を終わること。二度目というのは、その人の事を覚えている人、家族でも恋人でも友人でも、それらの人々がみんな死んだら、その人は二度目の死を迎える。そういう映画でした。人はそうかもしれない。でも神様は忘れることはない。しかも、ただ忘れないというのではない。ペトロ書は続けて語ります。そして、霊に於いてキリストは捕らわれていた霊たちの所へ行って宣教されました(三・一九)。死んだ人たちの所に行ってキリストは福音の御言葉をかけ続けて下さる。そして四章で今一度、念を押すように語る。死んだ者にも福音が告げ知らされました。神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。私たちが死んだ後も神様は忘れない。その限りにおいて私たちは生きている。御言葉をかけ続けられた者として私たちは、体の甦り、肉体ではなく霊の体ですが、甦らされます。

今日は召天者記念礼拝であることを思いつつ、一冊の本を紹介したい。『私は喜んで歳をとりたい』。イェルク・ツィンクというドイツ人の記した本です。翻訳者によりますと、この題名は原文では『私は喜んで歳をとる』だそうです。そう歳をとりたいなという願望ではない。もうそのように心に決めている意志的な言葉だそうです。
本文の中から一部を紹介します。喜んで歳をとりたいなどと言えるのは未だ若いからだろうか。そうではないようです。最初の所を読んでみます。「歳をとったのはもうまぎれもない事実だ。最近こんなことがあった。穏やかな夕べの事、庭バサミを手にして庭に立っていると、数歩離れた所に立っていた妻が何か言った。以前のように耳が聞こえないので『何?』と聞き返した。『ザットラーさんたちが来るのは水曜日で良いか』と言う。カレンダーは階段降りて行った部屋だ(地下室?)。一段一段降りて行ってハッと気付いた。何で降りて来たのだったか。あぁそうだ、友だちが来るというのだ。そして予定を見ようとすると、あっ、メガネだ。上に置いてきた。また階段を一歩一歩昇って、メガネを取って、戻る。水曜日か。大丈夫だ」…。文章は続きますが、老いる事の現実をご自身経験しながらこう語ります。「だがおかしなことに、私はそれで良いと思っている。昨日言われた名前を思い出さないからといって、それはどうってことはない。何もかものろくなり、しんどくなって当然だ。それでも私は喜んで歳をとろう」。皆さんはどうお感じになられるでしょうか。

次の文章をご紹介します。「私が幼かった時、一人の老人が、私の額に水を注ぎ、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けてくれた。それは死からの甦りのしるしだった。私は祝福の内に、命を与え、成長させ、甦りにまで、守り導いてくれる神に委ねられたのだった。私は地(陰府)に降り、しばらくの死の後、復活する。そして、新たな経験が待ち構えている世界に入っていく」。著者は死後を明るい希望として語っています。
今日の旧約聖書、詩編一三九篇四節以下に、私の舌がまだひと言も語らぬ先に、主よ、あなたは全てを知っておられる。前からも後ろからも私を囲み、御手を私の上に置いていて下さる。教会が洗礼の時に手を置いたように、神様は御手を置いていて下さる。御手については七節以下も。どこに行けば、あなたの霊から離れることが出来よう。どこに逃れれば、御顔を避けることが出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもって私を導き、右の御手をもって私を捕らえて下さる。神様の御手がしっかりと私を導き捕えていて下さる。この地上でも天上でも、天に登ろうとも陰府に降ろうとも、主なる神様がそこにおられるからです。

先程の本から「私たちには、自分をそれにすっかり任せたい、と思うものがある。例えば、医者の力や、私を助けてくれる人の善意だ。そして何よりも神の知恵。 自分を任せるとは、私たちが家から出て行くときのように、自分という家を離れて、出て行き、自分でそれを守るのではなく、誰かにすっかり委ねること。任せるというこの不思議な言葉は、自分を離れて初めて、私たちは確かな地に到達できる、ということでもある」。
陰府において福音が告げ知らされる、と聖書は語ります。そのとき、私たちは、いわば患者です。主イエスは仰いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。 患者が医者から色々説明を受けて、質問のやり取りなどした後、最後、医師を信頼してお任せします、と言うように、私たちは陰府を経て、主イエスの御前に立ちます。そのとき主は仰るに違いない。「私があなたの救い主。あなたの罪を十字架で贖った。私と私の御業を信じるか」。医者である主イエス・キリストを前に、患者である私たちは「はい。信じます。お委ね致します」と答えるしかない。その時にもまだ、お任せできません、神様なんかいるものですかなんて不信仰を貫くことは出来ないことです。神様に全てをお任せ致します、と心から告白するに違いありません。

この本からもう一か所「ある島に、長い間滞在した後、ある晩、小舟が私たちを沖へ連れ出してくれた。夕日が沈む山々の陰には、まだ光が残っていた。今、私はもう一度若くなりたいとは思わない。私は喜んで歳をとってきた。そして人生という時の境を超えて、神が共におられたことを心から感謝している。私と、人生と、永遠と、その境は、私にはいよいよ、無くなってきている。私は今、夕日が沈む向こうの光のある所に立とうとしている」。この書物の締めくくりの言葉です。
詩編は語ります。私は言う。「闇の中でも主は私を見ておられる。夜も光が私を照らし出す」(一三九・一一)。 闇の中でも照り輝く主の栄光の中に、その光のある所に立てる。でも一二節の言葉は不思議な言葉です。闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち、闇も、光も、変わるところがない。闇が神様に照らし出されるので闇とは言えないというのなら解かる。でも闇もあなたに比べれば闇とは言えない。神様の方がよっぽど深い闇だと言う。聖書は時折、不思議な言葉を置く。それで読む私たちは、訳が分からなくなるというか、それが面白いというか、福音への気づきがそこに隠れています。
何故、詩編記者がこう語り得たか解りません。でも新約に生きる私たちは解ります。イエス・キリストが十字架で負って下さった闇、それ無しには私たちが陰府から地獄へと突き落とされていくしかない程の闇、その全てを主イエスが十字架に於いて負って下さった。この闇に比べると、普通私たちが考える闇は闇の内にも入らない。主イエスが、私たちの負うはずだった闇を私たちの代わりに全て負って下さった。だから夜も昼も共に光を放ち、闇も光も変わる所が無い。そう言えるのは、キリストご自身がこの闇に成られたからです。

一六節、胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書に全て記されている。まだその一日も造られない内から。先々週語りましたことは、胎児の段階よりもっと前、天地創造の前から神様は私たちを愛しておられるということ。それで私たちは世に命を授かった。生まれる前から、神様の記憶の中に私たちはあり、地上の全ての営みも同じであると詩編は語る。そしてキリストの甦りの故に、キリストは私たちの地上の人生を貫きその前からも後に至るまでも、私たちの存在と名を「あなたの書」に記して下さる。

終わりに一七節以下をお読みします。あなたの御計らいは、私にとって如何に貴いことか。神よ、如何にそれは数多いことか。数えようとしても、砂の粒より多く、その果てを極めたと思っても、私は尚、あなたの中にいる。何と恵み豊かで安心なことでしょう。地上の生涯では教会で聖書を通し、地上の生涯の後には陰府と甦りの世界で直接、キリストから福音を告げ知らせて戴きます。

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