イザヤ 四三・一
ヘブライ一三・七~一七
今日、心に留めたい聖句は、私たちには一つの祭壇があります(ヘブライ一三・一〇)です。この祭壇とは言うまでも無く、主イエス・キリストが御自身を献げられた十字架のことです。それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外、エルサレムの城壁の門の外のゴルゴタ、で苦難に遭われたのです(ヘブライ一三・一二)とある通りです。「一つの祭壇」とは主イエスの十字架です。恐れるな、私はあなたを贖う。(イザヤ四三・一)とありましたが、贖う。これは買い取る。普通はお金を買い取るわけですが、神様はイエス・キリストの命を以て、私たちを罪もろとも買い取って、私たちを御自身のものとし、罪から贖い出し清めて下さった。そして、あなたは私のもの。だから放り出したりしないで、私はあなたの名を呼ぶ、と私たちを大切にして下さる。そのための、キリストが御自身を献げられた十字架の祭壇です。このことを踏まえた上で、今日は私たちにも祭壇があることを考えたいと思います。
ヘブライ書は、いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした
(ヘブライ一三・九)と語ります。ユダヤ教では律法に基づく色々な規定があって、ここでは、これは食べては良いとか駄目だとか、食物規定のことを触れながら、その規定に従って生活する生活のあり方が規定されていました。毎日の生活が宗教生活なのです。
それでヘブライ書は、食物規定によって生活を形作るのではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです、と生活のあり方を規定し直します。私たちの外にある石の板に書かれた旧い律法規定ではなく、私たちの胸の中に、心に記された(エレミヤ三一・三四参照)新しい恵みの規定によって生活を形作る。それが、生活という私たちの祭壇、それが毎日の宗教生活なのです。
同じ事を主イエスも指摘しておられます。イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが……」(ルカ二一・一~)。ここでは賽銭箱にお金を入れる献金の話ですが、主イエスはある貧しいやもめの婦人に目を留められました。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」。生活費全部と訳されていますが、直訳は生活全部。彼女は生活、人生を献げた、ということです。このことを主イエスは大切なこととして指摘された訳です。生活を献げる信仰のしるしとして献金をささげます。主イエスは、しるしとしての献金が表す人々の信仰の中身を見ておられました。
そしてヘブライ書は、そういう宗教生活を生きた、指導者たちを思い出しなさいと勧めます。あなた方に神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい(ヘブライ一三・七)。これは既に天に召された指導者たち。そして今、生きて活動している指導者たちのことも語ります。指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなた方の魂のために心を配っています(ヘブライ一三・一七)。指導者の姿は、献金の話と言うより、命も生活も人生も献げる献身の姿です。
そこで、私たちの教会の指導者、信仰の先達を思い起こしたいと思います。大勢おられますが、そのお一人、中山昇氏。ここに『芽生え育ちて地の果てまで2』を持ってきました。中山先生が指導者と仰ぐ植田真一校長、植田先生が起草しました清教学園設立趣意書は掲げる目標について、中山先生がこう記しておられます。信仰と知性の道場としての学校であること(二二二頁)。「道場」という表現が興味を惹きます。趣意書には載っていません。植田先生がどこかでそう発言されたのでしょうか。私には分かりませんが、少なくとも中山先生が、道場としての学校と表現しています。
それから別の話ですが、清教学園高校の建設用地について、理事会が招集されました。みんな現地に出かけました。そしてその場が、決断と祈りの場になりました(二〇〇頁)。ここには「場」という表現があります。中学校が始まった頃の記事には、これから何をどう造っていくのか、理想と現実の落差の大きい中で学校は呻きました。そして導かれたのが、礼拝と祈りによって、神様に聞きながら、自分を見つめ直す場を与えていただくということでした(三四頁)。ここでも「場」という表現。中山先生にとって教師として生きる学校生活そのものが礼拝をささげ祈りをささげる場であったのではないかと思います。それは道場と表現しても違和感はない訳です。そして私が何を思ったか、この本に私のメモ書きがあって、中山先生にとっては清教は祭壇、と。メモ書きしたときにキリストを信じる信仰者として生きる学校の教師にとて清教は祭壇であると、私が感じた訳です。
皆さんも、それぞれ自分が生きている場、毎日の生活を、「道場」、そして自分をささげる献身の場、つまり「祭壇」として捉えて直すこと、このことをヘブライ書が求めていると言えるのではないでしょうか。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです(ヘブライ一三・一五~一六)。これは教会での主日礼拝をささげている間だけのことではありません。毎日の生活すべてが祭壇の場です。
来週は教会総会です。議事としては新年度の活動目標ということになりますが、教会の働きを教会員で担う共に御業に仕え、支え合う河内長野教会、みんなで建てていきましょう、と確認したいと願っています。教会のみなさんの働きとは、何よりも礼拝をささげること、祈りをささげることです。そしてご奉仕いただきます個々の働きがあります。そしてもう一つ確認したいと思うことがあります。それは皆さんの毎日の生活が証の働きであるということです。ヘブライ書の言葉で言えば、賛美と善い行いと施し(=コイノニア、交わり、分かち合い)のいけにえを献げましょう。礼拝と祈りと教会における働き、そして恵みによって心強められる礼拝から始まり、赦しの中に招かれる礼拝へと進む毎日の生活、これらを主日も週日も皆さんは献げておられる。このことを活動目標と併せて確認したいと願っています。