出エジプト記三三・一八―二三
Ⅰヨハネ 四・一一―一七
今日は説教題を「神 我らの内に、我らも神の 内に在り」としました。それは今日の聖書個所にほぼ同じ内容の文章が記されている所から、この説教題としたものです。一二節、一三節、一五節、
一六節、三章二四節にも。ヨハネは異口同音に、私たちは、神の内に留まり、神もその人の内に留まって下さいますと何度も語ります。創造主であられる神が、被造物、しかも罪人でしかない私たちの内に留まり、私たちも神の内に留まっている。
私たちがよく思い起こすのは、インマヌエル、神、我らと共に在ます。共に在ますということから考えているのは恐らく、我らの傍らに、隣に在ますことではないですか。我らの近くに在まし給うけれども、言ってみれば、我らの外です。それに比べヨハネの表現は、我らの内に、私の中に在ます。内在です。今日はこの表現を受け止めたい。
キリスト教の語る救いの出来事は、まず私たちから見て遠い外の事として生じました。イエスがこの世に生まれ、この地上の生活を送り、十字架上に亡くなられ、不思議なことに死人の内より甦られ、天に挙げられた。これらは皆、今の時点から見れば遥か以前の二千年前に、地理的にも遠く離れたイスラエルの地で起こった出来事です。
もちろんこれはこれで大事です。遠く離れた出来事ですが、この出来事は、こちら側の私たちの善し悪しに左右されない客観的出来事として確立している。信仰が揺らごうと、信仰が無くても、この出来事は歴史上の出来事として既に起こった、生じたという事です。これをキリストの歴史的啓示と言います。
歴史に明らかになったこの出来事から、ヨハネはその本質を表現しています。イエスが、マリアを母としてただ生まれたのではない。御子です。神は、独り子を世にお遣わしになりました(九節)。クリスマスの時に、イエス・キリストが肉となって来られた(二節)のでした。十字架で亡くなられたのはただ死んだのではない。神が私たちの罪を償う(→贖う)いけにえとして御子をお遣わしになりました(一〇節)。それは御父が御子を世の救い主として遣わされた(一四節)ということなのだと本質的な意義を受け止めています。
出エジプト記が語りますように、人間は神を直接見ることは出来ません。だから神であられる御子がわざわざ肉となって、その肉となられた御子の内にご自身の本質を隠されて到来されました。ですから当時、イエスのお姿を見て、これは神様だとすぐ理解出来た人はいなかった。聖霊降臨の出来事があって初めて分かったのでした。
ヨハネは、この歴史的啓示から、ここに、神の愛が私たちの内に示されました(九節)と確信して語ります。主イエスを思い、主イエスに想いを向けていると、その人格、存在と営みと共に、神の愛がここにあるんだなと分かってくる。だから、神は愛だからです(八節)、神は愛です(一六節)と語ることが出来ました。神が愛であるのは、歴史的啓示である主イエスのお姿から初めて言えることです。直接神を見ることは出来ないからです。
肉となったイエス・キリストの御業と愛、ここまでは、歴史上、私たちの外に起こったことです。神の愛が十字架上に私たちのために発揮されたとしても、まだその愛はキリストの側にあります。
そして、このキリストの出来事が、私たちの救いと関わりのあることとして、私たちの内に示され、私たちがこれを受け止めますと、それは、イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す(二節)私たちの側の信仰告白になります。あるいは、イエスが神の子であることを公に言い表す(一五節)私の信仰告白になります。そして皆さんは、公に信仰を告白し信じ洗礼を受けた者として、キリスト教徒である訳です。ここまでは当然のこととして納得しておられます。
この次の事として、神は私たちの内に留まって下さり、私たちも神の内に留まるのだという事が出て来る。これが本日の課題です。
主イエスが私たちを愛するためにこの世にお出でになり、十字架にまでかかられたということは、そのままあちら側の事として終わるのではなく、神様が、更に、私たちの内に留まるためであったという事であります。皆さんは、自分を見て、神様がここにいらっしゃる、と言えますか。御父と言ってもいいし、御子と言ってもいいし、聖霊と言ってもいいのでしょう、とにかく神様が私たちの内に留まる。ヨハネの言葉から一つ言えば、神は私たちに、御自分の霊を分け与えて下さいました(一三節)。聖霊が内住しておられる。
またパウロもこう言いました。あなた方の体は、神から戴いた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなた方は最早、自分自身のものではないのです(Ⅰコリント六・一九)。更にこうも言いました。私はキリストと共に十字架に付けられています。生きているのは最早、私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです(ガラテヤ二・一九-二〇)。神様が私たちの内に留まる。皆さんも、このことに想いを向けながら、アーメンと言って下さい。自分の日頃のあり様にこだわって、とんでもないと言わない。聖書がこう語るのですから。
とは言え、私自身、自分の言葉としてうまく言い切れない所がありますので、書物から引用して語らせてもらいます。『祈り』というある本にこういう文章がありました。
「祈れない時もあります。その時は単純になればいいのです。私の心の内におられるキリストに祈って戴くのです。キリストが御父に語りかけるその祈りに、心の沈黙の中で任せきるのです。私が語ることが出来ないその時、キリストが語ります。私が祈れないその時、キリストが祈ります。 だから、次のように繰り返し言う事が大切です。『私の内におられるイエスよ、あなたの、私への誠実な愛を信じます』と。もう何も差し出すものがない時、この『何もない』ということをイエスに差し出せばいいのです。そして、内におられるイエスに祈って戴くのです。御父の事はイエスが誰よりもご存知だからです。イエスの祈りに優るものはありません。イエスがどのように祈ったらいいのか分からない私たちのために、私たちの内に聖霊を送り、そこで祈って下さるのです」。
これはマザー・テレサの言葉です。皆さんは思うかもしれない。「あぁ、マザー・テレサね。マザー・テレサなら自信もってキリストが自分の内にいると言えますよね…」。違います。皆さんも同じです。神様が、キリストが、聖霊が、お一人おひとりの内に留まっておられる。そのことに想いを向けながら皆さん、アーメンと言って下さい。
プロテスタントの書物からも引用しましょう。ルードルフ・ボーレンという神学者・牧師が大体こう言っています。「神の御子は、十字架に於いて一切の高さを捨てられた。弱さに弱さを加え、死に至られた。聖霊は、あなた(=私たち)抜きでは、いわば弱いままであり、無に等しいものである。聖霊は仲間を作る霊である。仲間を作って、人間をご自身の行動の中に引き入れられるのである。神がこの世に来られた時、聖霊はマリアを必要とされた。マリアはその魂を主に向かって高く挙げたのである。神がその霊を通じて、我々の内部で、働かれる時、その働きを我々に依存するものとされる。(祈りに於いて)聖霊に語って戴ければよいのである。あなたが、聖霊にこだまのように答え、聖霊が先に語る言葉を口真似して語ることをしなければ、聖霊は沈黙したままである」(『天水桶の深みにて』)。
ボーレンは、救いの客観性を重んじる神学者ですが、ご自身が病になった時、客観的救いの御業があっても、自分の弱さの中で倒れてしまった。そこから、神様がこの私の中にいて下さり、この私を用いて救いの御業を為し給う、ここに想いが促されていったようです。調子の良いときに信仰熱く聖霊を受け入れるというより、むしろ反対です。そこで、どう祈ったら良いのか分からないでいる時、神の栄光を全く現せない時、聖霊が呻いて下さいます。そして御業を遂行されます。
二千年前、私たちの外で御業を成し遂げて下さったキリストは、今に至るまで、今日も、これからも、私たちの中におられ、御業を継続しておられる。私たちが傷む時、きっと聖霊も傷んでいる。また聖霊が御業を始める時、私たちはこんな弱い自分であるのに、不思議なことに御業に用いられている。内住とそれによる御業は、私たちには神様の秘義です。そして、アーメンと告白します。
その結果どうなるのかと言いますと、こうして、愛が私たちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。その日には、イエス・キリストが神の御子、私たちの救い主ですと、確信してはっきりと告白出来ます。ヨハネはその理由を何とこう語ります。この世で私たちも、イエスのようであるからです(一七節)。ヨハネは実に大胆なことを言います。私たちがイエスのようである。これはどういうことか、これは次週、愛には恐れがないという御言葉と共に改めて共に味わいたいと思います。