ダニエル書一〇・二〇~一一・一
ヨハネの黙示録一二・一~一八
本日は教会暦の終末主日であることを覚えて、ヨハネの黙示録から御言葉を味わいます。説教題を「神の計画、地上の事実」としました。ヨハネが黙示録を記した時代の地上の事実は、ローマ帝国によりキリスト教徒は殉教を強いられる、そういう事実があった時代です。そのような中で当時のキリスト教徒たちが信仰を捨てることなく、むしろ 「死に至るまで命を惜しまなかった」(黙示録一二・一一)ほどに、信仰を守り通したのは何故であったか。それは天上の神様のご計画を幻の内に見、それを信じたからです。このキリスト教徒、信仰者の姿をこう記します。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証しの言葉とで、彼(=サタン)に打ち勝った(一一節)と記します。この神とサタンの戦いにおける神の勝利、信仰者たちもその勝利に連なる、その神様のご計画を幻の内に見る。その幻をヨハネは教会に紹介して、幻を一二章では天に大きなしるしが現れた(一節)と記します。
そのしるしの内容は、まず光り輝くような女性の姿です。一人の女が身に太陽をまとい、月を足の下にし、頭には十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていたが、子を産む痛みと苦しみのため叫んでいた(二節)。そして、女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖で全ての国民を納めることになっていた(五節)。生まれ出たこの男の子は救い主イエス・キリストだと理解してよいでしょう。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。今は天におられます。するとその母はマリアのことだと言えるかも知れません。けれどももっと広く、この救い主の誕生をずっと待ち望んできた旧約の民、そして更に、この救い主が再び到来されることを待ち望んでいる新約の民、即ち教会である、と理解することが出来ます。
そして、次のしるし、この信仰者たちに立ちはだかるサタンの姿が現れます。これが、教会が置かれていた地上の事実でした。また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた(三~四節)。この竜については九節に説明があります。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者。ついでながら、竜と共に登場するのが獣です。一匹の獣(一一・七、一三・一)とあります。これは当時の世の権力者、ローマ皇帝を象徴しているようです。地上の見える現実の事実は、この世の権力者たちが教会の信仰者たちの迫害者として立ち現れる。その背後にあって世の権力者たちの心を牛耳っているのが神に逆らう罪の力です。黙示録はこの罪をサタン、そして竜として描きます。
そして、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが竜に戦いを挑んだ。ミカエル、この天使はダニエル書に登場します。ダニエル書が知っている歴史の地上の事実は、ペルシャの時代とその次のギリシャの時代、共に異邦人の支配の下にある時代です。ダニエルは一人の人、人の子のような姿 (ダニエル一〇・五、一六)の幻を見ます。その人が語りかける。今、私はペルシャの天使長と闘うために帰る。私が去るとすぐギリシャの天使長が現れるだろう。しかし、真理の書に記されていることをお前に教えよう。お前たちの天使長ミカエルの他に、これらに対して私を助ける者はいないのだ。彼は私を支え、力づけてくれる (ダニエル一〇・二〇~)。
ヨハネはダニエル書に親しんでいたようです。ミカエルの記事をよく知っています。それで黙示録にもミカエルが登場します。このミカエルに対して竜とその使いたちは応戦したが勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。地上に投げ落とされたのである(七節~)。
地上に落とされた竜は、女(教会でしたね)の後を追いますが結局、女は守られます。竜は女に対して激しく怒り、その子孫の残りの者たち、即ち、神の掟を守り、イエスの証しを守り通している者たちと戦おうとして出て行った(一七節)。女の子孫たち、イエスの証しを守り通している者たち、当時のヨハネの教会の信仰者たちですが、それはまた、今の私たち信仰者のことでもあります。
ヨハネは、天上の戦いにおける結末を目にします。巨大な竜は投げ落とされた。それで、地上の迫害の事実を前にしても、それは厳しい地上の現実ではあるけれども、信仰を捨てないでいることが出来る。
この信仰を支えるようにして天で大きな声が次のように言うのをヨハネは聞きます。 「今や、我々の神の救いと力と支配が現れた。神のメシアの権威が現れた。我々の兄弟たちを告発する者、昼も夜も我々の神の御前で彼らを告発する者が、投げ落とされたからである。兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証しの言葉とで、彼に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった」(黙示録一二・一〇~)。
私たちは罪人です。もし、全人類を惑わすサタンが、お前は罪深い者ではないか、神の御前にあっては滅びるだけだ、お前の信仰なんて何の役に立つのか、と私たちを告発し惑わしてきたら、誰が反論できるでしょう…。でもその罪を代わりに担うキリストがおられる。十字架でキリストの小羊の血が流された。それ故に、私たちの罪は贖われた。私たちはキリストを信じるこの信仰に立つ。
ヨハネはこのキリストの十字架の信仰にしっかりと立つことへと教会の人たちを励まします。そしてその際、神の勝利としての小羊の血と共に、併せて言及したことがある。それは「自分たちの証しの言葉」です。この世の事実がある。今の私たちは、日本国憲法の下で思想信教の自由が保障されて、迫害を受けることはない。でも信仰を馬鹿にされたり、様々な不条理がある。自信を失ったり、人間の罪深さ傲慢さをつくづく思わされたりすることもある。キリストよりも自分の都合を最優先してしまうこともある。体の弱さや余命を意識したりすることもある。戦争が繰り返される歴史と、それをどうしようも出来ない無力さを思ったりもする。そのような中、神様は何をしておられるのですか、と信仰を失いかけりする時もあるかもしれない。この地上は真っ暗だと思ったりもする……。
でもそれらは神様のせいではない。その殆どが結局は人間の罪のせいです。罪の力が今もこの地上、この世界で我が儘なことをしている。
でも だからこそ、キリストを信じる。天でのミカエルとサタンの戦いにける神の勝利に思いを向ける。その証しをする。私たちは死に至るまで命を惜しまなかった(一一節)という程ではないかもしれないけれども、私たちだって死に至るまで信仰を、希望を失わず、愛に生き、死に至るまで証しに生きる。 『A・D・ヘールに学ぶ』の中で著者は語ります。その文脈は、日本人が信仰を堅く持ち、伝道者として歩むのには、神学が必要だ、という文脈です。
キリストの十字架の贖いによって裏付けられた信仰こそが、私たちに与えられた福音であって、日々迫ってくる苦難の中にも、尚、生かされる喜びの源泉を持つ幸いを、このように(A・D・ヘールが)説き明かしていてくださる、と(一〇〇頁)。 一年前、壮年会、婦人会の合同の例会で、最相葉月の「証し」の書物から、問いを受けました。それなのに何故あなたは神を信じ続けるのか、と。私たちもまた、地上の事実の中にあって、自分の証しの言葉を語り続ける。自分の言葉と存在と人生で、死に至るまで語り続ける訳です。天上では明らかになっている勝利、そのご計画を信じるからです。