日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年12月7日 説教:森田恭一郎牧師

「神の栄光をたたえることに」

詩編 九六・一~一三
エフェソ一・一三~一四

教会暦の新年、待降節になりました。待降とは、救い主のご降誕を待ち望むということです。詩編が主は来られる(詩編九六・一三)と記す通りですが、ユダヤ教は終末に救い主が来られることを待ち望みました。他方、キリスト教会は、旧約聖書を歴史の中に既に降誕なさった救い主を待ち望む書として理解します。そして、この歴史の中に降誕なさり、十字架と復活を経て天に戻られた救い主イエス・キリストが、再びやって来られるのを待ち望みます。

詩編は、新しい歌を主に向かって歌え (詩編九六・一~)と主をたたえ歌うようにと私たちを招きます。新しいというのは新年を迎えて歌うから新しいというのではありません。もしそうなら、年末には古くなってしまいます。そうではなくて、救い主の到来を新しい時として描いている。救い主が来られた、神様が御自身を顕された、神様は我らと共におられる。そう信じて生きることが出来る。これは本質的に新しい事です。それで、全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。国々に主の栄光を語り伝えよ、諸国の民にその驚くべき御業をと救い主の到来を新しい出来事として高らかに言える。

もし私たちが、イエス・キリストが一度来られたのに、その後の歴史は何も変わらないではないか、と新しさを感じなくなってしまっているとしたら、私たちの信仰は、年末には古くなるような信仰になってしまっています。そう思えてしまうとしたらそれは、周囲の人間の作る歴史に振り回されているからです。神を信じない不信仰な社会と歴史、それは何も変わっていないではないか、と振り回される。

それに対して私たちは、主なる神を仰ぎ見る。だから歴史をこう締めくくります。主は来られる、地を裁くために来られる。主は世界を正しく裁き、真実をもって諸国の民を裁かれる(詩編九六・一三)。 裁くというのは、不信仰を裁くということです。神様は不信仰に対しを見ない振りをしているのではなく、しっかり見て裁く。その結果、イエス・キリストの神が真の神であられると世界が信じ、万物万民の礼拝が起こる。それが新しい歴史の完成です。

そしてそれまでの間、キリストが既に来られてから再び来られるまでの間(=中間時)、地上を歩みつつ、こう表現することも出来る。我らの魂は主を待つ。主は我らの助け。我らの盾。我らの心は喜び、聖なる御名に依り頼む。主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように。主を待ち望む我らの上に(詩編三三・二〇~)。救い主は来て下さったのだ、神様は本当に私たちと共におられるのだ、その救い主が再び来て下さるのだ、といつも新たに喜び歌う信仰の心を与えられています。

さて、エフェソ書。振り返りますと、神様は天地創造の前からご計画があり、時が満ちるに及んで救いの業が完成され、それまでバラバラであったあらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられ、私たちは、その約束された御国の相続者とされる。それは神の栄光をたたえるため。

ここまで主語は手紙を記した立場で「私たちは」となっていましたが、「あなた方もまた」(エフェソ一・一三) と書き加えてエフェソの読者たちを「私たち」の中に一緒に加えて、私たちみんな、神の栄光をたたえることになる(エフェソ一・一四) と締めくくります。このあなた方とは、エフェソのおもに異邦人の人たちの事です。

そして、あなた方というのは、そのまま、今ここにいる私たちのことでもあります。ここにエフェソ書が記したことは、そのまま礼拝をささげる私たち自身の姿です。中間時に生きる私たちの姿です。あなた方もまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

礼拝をささげ、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞くのですが「キリストに於いて」が大事ですね。哲学一般の真理ではなく十字架と復活あってこその救いの真理、福音です。そして聖霊の導きによって信じ告白し、洗礼を受け、その約束、御国の完成も確かです。聖霊で証印を押され、聖霊が保障となっているのですから。将来、この世でなはない御国の民となる希望の内に、神様のものとなって 、神が共にいて下さり、見捨てられることなく、 神の栄光をたたえて生きる。そういう信仰者の姿です。

 

主を待ち望む。それはただボーッとして待っていれば良いということではありません。先週も引用したのですが、橋本通牧師の言葉を紹介します。兄弟たちよ、その栄のために働く我らに味方したもう強き神を思え。自信を失った世は確信を以て立つ者につき従う。故に兄弟たちよ、街頭に立て。山間の地にも聖書研究会を開け。一〇〇人礼拝、五〇人祈祷会、出張日曜学校三〇、伝道所二〇を作れ!(『しもべの道』一七頁)       神の栄光をほめたたえる我らに味方したもう。味方したもうというのは、地上の今の生活にあって聖霊が保障しているということでしょう。その強き神を思う、状況に振り回されるのではない、我々の側に確かさがあるのでもない、聖霊の保証に確かさがある神のご計画です。橋本牧師の言葉は、強き神を思うその信仰に今を生きる気概の溢れた勧めです。

八十年近く前の文章ですから状況は今を見ながらですが、中心は神様のご計画を信じながらです。河内長野教会についても、神様の側は保障しておられるのですから、そのご計画の中に置かれていると信じて、待降節、またこの一年を神の栄光をたたえながら歩み出します。

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