日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2020年9月6日 説教:森田恭一郎牧師

「神の愛、行為の中に」

創世記二二・一五~一八
ヤコブ 二・二〇~二六

ヤコブは問いかけます。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか(二・二〇)。今日は、ヤコブが行いの伴う役に立つ信仰に生きた人物として紹介したアブラハムから学びます。その行いとはイサクをささげた行為です。神が私たちの父アブラハムを義とされたのは、息子のイサクを祭壇の上に献げるという行いによってではなかったですか(二・二一)。

 

息子イサクは、神様から子孫を与えると約束を戴いてから二五年目、アブラハムが百才になって授かった待望の一人息子です。妻サラと共に可愛がって育てた息子イサクです。イサクが少年になった頃、神様は父アブラハムに命じます。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記二二・二)。神様からこう命ぜられて父アブラハムはどれほど心引き裂かれ苦しむ思いをしただろうか。想像を絶します。そして実際にモリヤの山で祭壇を築き、イサクを載せ刃物を手に取り息子を屠ろうとします。とその時、御使いが声をかけます。「その子に手を下すな」(二二・一二)。アブラハムはそこにいた雄羊を代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのでした。そして、主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「私は自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民は全て、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからである」(二二・一五~)。

アブラハムは自分の息子を本気で殺そうとする訳ですから、今日の私たちが第三者の立場から見ると、こんなひどい親はあるものかと批判したくなる所です。パウロは創造主なる神への信仰、復活を信じる信仰として、アブラハムの行為を理解しています。「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ」(ローマ四・一七)とある通りです。

 

ヤコブも、このアブラハムの行為を信仰の行為として理解しますが、その理解の視点は次の通りです。アブラハムの信仰がその行いと共に働き、信仰が行いによって完成されたことが、これで分かるでしょう(ヤコブ二・二二)。この信仰というのは創世記一五章、なかなか子を授からないので、アブラハムが神の約束を信じられなくなった時に、神様が彼を夜、満天の星空の野原に連れ出して、「あなたの子孫はこのようになる」(創世記一五・五)と言われて、アブラハムが信じた信仰です。あの時の信仰が彼の行為と共に働き、あの信仰がこの行為によって完成したというのです。それでヤコブは続けて「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです (ヤコブ二・二三)。

パウロは、この星空の下で行為なしに神とその御言葉を信じたこの記事から、律法主義に対して、行いによってではなく「信じて義と認められる」ことを主張します。宗教改革者ルターもこのパウロの理解を基に「信仰義認」の教理を確立していく訳です。

ヤコブはまるでこれに正反対の理解をしているかの如く語ります。これであなた方も分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません(ヤコブ二・二四)。

ヤコブは、パウロと異なった律法主義の考え方をしているのではなく、行いなしに信じた信仰が、その後、共に働いて行いを伴い、行いによって完成する。完成した信仰によって義とされると言っている。そしてヤコブは信仰の質を問う。魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです(ヤコブ二・二六)。ここにある「魂」は「息」と訳せます。息をしていなければ死んでいると判断するように、行いを伴わず、行いを生み出していなければ信仰は死んでいる、行いによって完成に至ることのない信仰は死んでいるという訳です。思えば強烈な言葉です。信じなくなって信仰が死んだというのではない。信じているのに、行いを伴わず、完成へと向かわない信仰は死んでいる。鋭く、信仰を問うています。

 

以上ここまでが今日の聖書個所の説明で、ここからが主題です。生きた信仰を問うている。

アブラハムにとっては、イサクあっての日常生活です。イサクなしの生活なんてあり得ません。でもイサクをささげることを神から命ぜられて、息子イサクを失っていく訳です。それはそのまま自分を失う程のことであったに違いありません。どうしようもない喪失体験です。息子を連れていくモリヤの山への途上、神を愛する行いを伴う信仰が求められ、生きた信仰へと苦闘していきます。  思えば、父なる神様は、独り子キリストを十字架上にささげ、失いました。死んでも復活があるから平気だと考えておられたのだろうか。そんなことはない。愛する独り子、御子を十字架の上に失うのですから。父なる神様にとってもご自身を失う程のことです。

私たちの「失う」ことについて、ある人がこんなことを言いました。「人生はその最初から喪失の連続だ。生まれる時には居心地の良かった母親の子宮の環境を失い、幼稚園や学校に行く時には母親と分かれ、就職の時には若者の自由を失い、失恋して恋人を失い、定年を迎えて社会的地位を失い、年をとると共に美貌と体力を失い、最期を迎える時には全てを失う。色々な喪失体験を知っている」。もしろん、それでも、と私たちは思う。そういう喪失体験、その自分の体験から、自分の人生の固有性と人生の深みをも獲得していくと。

 

今、長老会は感染症拡大の予防を最優先して、教会の多くの皆様に、ご家庭での主日礼拝をお願いしています。そのために、礼拝順序や説教原稿を郵送したりホームページに掲載したり、ライブ配信しています。でもご家庭での主日礼拝と礼拝堂に集う主日礼拝とでは、やはり違う。ある方のお言葉に拠りますと迫力が全然違う。ライブ配信したからそれでいいという訳にはいかない。

これが否応なしにはっきりするのが、聖餐式です。実際にパンを食することなく杯からも飲まないで、聖餐の恵みに与れるのか。今日、ご家庭で主日礼拝をささげておられる方は、聖餐式の間、ひしひしとお感じになられることでしょう。

ご家庭での主日礼拝をお願いしました時、ある方が「私は怒っています」と電話口で敢えて冷静な口調で語って下さいました。怒るのは当然です。また憤るのは健全です。もし、ここで何も怒りを感じない。全く憤らないでいられる。礼拝や聖餐がなくなっても平気でいられる。日常生活は礼拝や聖餐があってもなくても全然変わらない。それが私たちの信仰なら、それこそ信仰は死んだものです。

礼拝に集えず、聖餐の恵みにも与れない。それは辛い。言葉で言い表せないほどのものだ。そう遠慮なく嘆いて下さい。この怒りや憤りや嘆きを表せないで、表向き平然としていなければならない教会だったら、これも死んだ教会です。

今日は、礼拝に集えず聖餐の恵みに与れない私たちの課題を再確認するにとどめます。

 

ただもう一つ加えます。イエスは、私たちのために、命を捨てて下さいました (Ⅰヨハネ三・一六)。主の死を宣べ伝える聖餐は、キリストご自身の命が失われた事を語ります。そしてそのことによって、私たちは愛を知りました。それで私たちは神を愛します。そこから次に隣人愛です。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。聖餐が指し示すキリストの十字架の死。聖餐があってもなくてもいいというのではない、聖餐があってこその私たちの信仰と、その日常生活を指し示しています。その約束の中に招いています。

 

 

祈り

父なる神様、礼拝に集えず、パンを食し杯から飲む聖餐に陪餐出来ない教会の現状を憐れんで下さい。感染症が収束しない中、改めて礼拝に集い聖餐に与る意味を深める機会を与えられています。私たちの信仰が生きた信仰でありますように絶えず導いて下さい。

只今からここに集いました者たちが代表して聖餐の恵みに与ります。聖餐の式の全体に聖霊の導きがあって、キリストの現臨の恵みに与ります。ご家庭でも配信の画像を見ながらそこにも聖霊が働いて下さいますように祈ります。

感染症の拡がりが収まりますように。また、台風の被害が少しでも小さくて済みますように祈ります。海水温を高くしてしまったかもしれない人間の環境破壊の営みを憐れんで下さい。

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