ホセア一四・二~四
Ⅰヨハネ四・七~一〇
今日からホセア書一一章の段落に従って四回、愛、正義、聖に関する御言葉を味わって参ります。 ホセア書と言えば、淫行の妻を愛する言葉から始まる書物として有名ですが、神様が淫行の妻のようなイスラエルの民を愛していることを語ります。歴史の事実としては、イスラエルの民は、神様から去って行きバアルという偽りの神を拝み、依り頼み、結局、ます北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされてしまいます。この点は正義の事柄として次週触れることにします。預言者ホセアは北王国イスラエルの民に、滅ぼされないようにと、真の神に立ち帰るように呼びかけ語ります。
ホセア書一一章の初めの部分を読むだけでも、神様の愛のお気持ちが染み通ってきます。まだ幼かったイスラエルを私は愛した。エジプトから彼を呼び出し、我が子とした。私が彼らを呼び出したのに、彼らは私から去って行き。バアルに犠牲をささげ、偶像に香を焚いた。エフライムの腕を支えて歩くことを教えたのは、私だ。しかし、私が彼らを癒やしたことを彼らは知らなかった。私は人間の綱、愛の絆で彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた(ホセア一一・一~四)。彼らを信仰の民として形成なさる出エジプトの救いの出来事を振り返って語っています。エジプトで奴隷状態だった彼らを紅海の奇跡を以て顎から軛を取り去り、身をかがめて救い出したのはこの私だ。それは私があなた方を愛したからだ……。一つひとつの語りかけが、愛の語りかけとして私たち心に染み通ってきます。イスラエルの歴史は愛から始まっている。
思えば、神様が愛し給もうのは彼らだけではありません。天地万物、これを神様がお造りになったのは、全てを愛するため、愛の対象として天地万物を、そして人間をお造りになられたのでした。イスラエルの民だけを愛しているというのではない。それなら彼らを選ばれたのは何故かというとそれは、神様の御業、愛の御業を受けとめ、感謝をささげて神様に栄光を帰し、この神様を宣べ伝える者として、アブラハム以来。イスラエルを選ばれたのでした。そして今、その務めを託されているのは、私たち教会です。教会はキリストを通して愛を受け、自覚しているからです。
今日の新約聖書は、ヨハネ書簡から選びました。この箇所も愛を語っています。愛する者たち、互に愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです(Ⅰヨハネ四・七~)。愛は神から出るもの、人間から出るものではない。何故、こう言えるかと言いますと、愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。私たちの神様、その本質は「愛である」と言い切っています。天地万物をお造りになったのも、神御自身が愛だからです。神様が歴史はを導かれるのも愛を以て導き出されます。もっとも人間の罪に邪魔されながらです。
そして神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に示されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえ(犠牲)として、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。ここに。ここにも愛があるが他の所にも愛はある、というのではありません。ここにこそ、ということです。罪を償う。償うというのは、通常は本人が負うこと、弁償することです。でもキリストが償うのは、私たちの罪を代わりに負って下さることです (私はこれを「贖う」と言って償うことと区別しています)。 私たちの罪を贖ういけにえ(犠牲)として、父なる神様は御子キリストを十字架におかけになった。ここに神の愛、神から出る愛があります。
私たちは、自分にも愛があると思う。人間から出る愛があるではないかと思うでしょう。でも私たちは私たちだけでは愛し合えない。むしろ、愛しているはずなのに喧嘩になったりします。親子、夫婦、家族、友人、恋人さえも……。人間が愛し合って破れることの如何に多いことか。世界の国々も、「○○ファースト」などと言って自国の利益を優先し、争ったり戦争にもなります。私たち人間だけでは愛し得ないのだと聖書は語っています。
ヨハネは「互に愛し合いましょう」と呼びかけます。だから私たちは愛し合って良いのですが、それは私たちの愛の故ではなく、愛が神から出るものだからです。愛が成り立つのは、神が愛であり、愛が神から出るものだからです。神から出るこの愛に支えられ導かれてこそ、一つの言い方をするなら。損得を超えて相手の重荷を共に負う愛を生きることが出来ます。神は愛であり、愛は神から出るもの。何と心強いことでしょう。
神が愛であることが決定的な仕方で明らかになったのが十字架です。神が私たちを愛して罪を償ういけにえとして御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。神様にとって何の得にもならないのに、御子キリストが罪人として裁かれ、私たちの罪を代わりに負う。それが贖うことですが、他の聖書でもこう語っています。罪と何の関わりのない方を、神は私たちのために罪となさった(Ⅱコリント五・二一)。愛であられる御子を罪となさった。それが神の愛です。次週、正義と関連して御子の贖いを語ります。