日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2026年1月4日 説教:森田恭一郎牧師

「神に望みを置く み言葉を」

イザヤ四〇・二七~三一
エフェソ一・一七~一八

羊飼いたちが、乳飲み子の下へと人々を招く讃美歌、来たれ、主にある民、来たりて拝め、いざ共に、を今、歌いました。私たちも、二〇二五年の最終の主日礼拝となりましたが、本年も、共に礼拝をおささげしてくることが出来ました。

礼拝を守る、という言い方もありますが、日曜日になかなか集えない日本文化の中で、よく礼拝を守ってこられました。ご家庭の中で自分だけが信仰者であると家族への配慮や (礼拝へと送り出してくれたことへの)感謝、 また地域での関りの中での配慮が求められる時もあります。子どもたちだって部活があったり塾があったりする。礼拝に少しでも集えるようにする知恵と意志が必要です。主日ごとに毎週出来る限り集い、健康上の理由やご事情で集えない時には配信を用いて、礼拝をささげる。どうしても集えない時もあります。集えない時には神様に報告の祈りをささげ、心は神様に高く向けます。

そのような中で礼拝を守り、また皆様が様々なご奉仕と共に、教会を覚えてお祈り下さいましたことを感謝します。教会の奉仕は、例えば掃除当番のように具体的に様々ありますけれども、一番の奉仕は、礼拝と祈りをささげることです。礼拝を守り、教会を覚え、病や困難を抱えるお互い同士を覚えて、祈りをささげる。何よりの奉仕です。

エフェソ書も教会を覚えて教会への執り成しの祈りをささげています。祈りの度に、あなた方のことを思い起こし、絶えず感謝しています (エフェソ一・一六)。そして祈りの内容が一七節以下のどうかで始まる文面です。まず、どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いて下さるように(同一七~一八節)。カルヴァンは人生の目的は何ですかと問い、それは神を知ることだと答えています。聖霊の導きによって知恵と啓示が与えられ、心の目が開かれ照らされ神を深く知る。これは人生の目的なのですね。

神を深く知るその内容が三つ。その一番目は、神の招きによってどのような希望が与えられているか(同一八節)。神を深く知る内容の二番目が、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか(同一八節後半)。三番目が、私たちの信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか(同一九節)、その三つの点を各々悟らせて下さるように、と祈っています。

教会を覚えて、また教会に集う私たちが何を基本に祈ったらいいのか分からない時には、このエフェソ書の言葉を基に思いを巡らせて、祈りの言葉を紡いで下さるとよい、ということになります。

今日は、前回の説教とも重なりますが、神の招きによって与えられている希望について思いを向けたいと思います。前回の説教と言っても一か月近く前のことですが、召命を戴いた時のモーセと受胎告知を受けた時のマリアの物語んい思いを向けました。モーセに対して 「私は必ずあなたと共にいる。これがあなたを遣わすしるしである」(出エジプト記三・一二)とお召しになりました。マリアに対しては

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ一・二八)とお召しになりました。双方ともに、これからあなたをこう用いますよ、という将来に向けての召し出しでありました。将来に向けて召し出す動的な神様の働きかけです。前回、このようなことを申しました。

ここから今一度確認したいと思いますのは、聖書が語る希望は、神様がお召しになる、そこに根拠を置いている希望だということです。神様がお招きになる時には、神様が私たちを呼び出される時には、私たちに与える希望が既に神様の側にある、ということです。確かな希望となっています。ですから、呼び出されたことの中に希望があるということです。                 私たちが福音を聞き、信仰を与えられて、その後の人生を歩み出した。それは望みの中を歩み出すことです。そしてその歩みを振り返ってみると、導かれてきた、と思い返します。導かれてきたと思い返せるのは、実に幸いなことです。今日読みました旧約聖書は、振り返っての問いかけかから始まります。ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。私の道は主に隠されている、と。私の裁きは神に忘れられた、と (イザヤ四〇・二七)。彼らは導かれていない、私たちのことなんか、神様は見なくなっては隠れて、忘れちゃったんだろ、と言う訳です。裁きというのは不正にあった時に正しく裁いて不正から解放されるということです。このように神様の導きを信じられなくなってしまった民の姿がありました。

それに対して主なる神は言われる。あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶ全てのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は極めがたい(神様は疲れちゃったんだよ、とうそぶく者もいたようです。それに対して神様は)疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士も躓き倒れようが、主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。ここで思いを向けたいのは、新たな力を得るのは、主に望みを置く人、とあることです。イスラエルの人々が置かれていた状況はそこでは何も変わっていない。もう駄目だと諦めていた。でもそこで、主に望みを置くかどうか、主に望みを置くことへと招いています。

繰り返しますが、私たちが福音を聞き、信仰を与えられて、その後の人生を歩み出した。信仰生活は望みの中を歩み出すことです。そしてその歩みを振り返ってみると、導かれてきた、と思い返します。その希望の根拠は、天地創造の前から主に覚えられ、招かれている(エフェソ一・四参照)ことです。このように導かれてきたと思い返せるのは、実に幸いであるし、ここに立ち続けたい。この一年間、皆さんはどうでしたか。望みを以て歩み出し、途中、私たちは心身ともに弱さを抱え、誘惑に負け、罪を思う悔い改めることばかりであったかもしれない。それでも、導かれてきたと今、振り返ることが出来る。

教会も同じ。一二〇周年記念を迎えることが出来た。一二〇年間、地域にあって信頼され、導かれてきた。そして、一二一年目を主に望みを置いて歩み出している。そう確信することの出来る希望の御言葉をイザヤ書、エフェソ書から今日も与えられ、新年を迎えます。

カテゴリー

過去の説教