創世記 一二・-~九
ヘブライ一一・八、一〇
今日、登場する人はアブラハムです。最初の名前はアブラム(父は高められるという意味です)。後にアブラハム(諸国民の父)という名前に変わりました。今日はアブラハムと呼ぶことにします。
アブラハムは神様から祝福の源となるように(創世記一二・二)と生きる使命を与えられました。今日は祝福の源になることについて考えます。祝福の源。それは、その人がそこにいると周りの人が祝福される、嬉しくなるという人のことです。
神様はまず、アブラハムに語りかけられました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラハムはそれで、住み慣れた所から旅立つ訳ですが、ヘブライ書によると、召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです(ヘブライ一一・八)。目的地がはっきりしないまま、カナン地方に入り、シケムに行き、ベテルの東の方、そしてネゲブ地方へと移っていきました(創世記一二・五~九)。諸国民の間を歩き回る訳です。アブラハムが歩き回るから、諸国の人たちに祝福をもたらす訳です。
そして神様はアブラハムに続けて語りかけました。「あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」(創世記一二・三)。この終わりの言葉はこういうニュアンスがあるそうです。「あなたによって自らを祝福する」。これは、アブラハムを祝福すれば神様から祝福される、というようなギヴ・アンド・テイクのようなことではありません。アブラハムは祝福を携えて歩き回っているので、アブラハムに出会って心を向けると、そのまま自ら祝福を受けているのです。逆に、アブラハムと顔を合わさなければ自分で祝福を要らないと言っていることになるんです
皆さん、赤ちゃんのことを思い起こしてみて下さい。赤ちゃんって、自分では何も出来ません。立つことも出来でお布団に横になっているだけ。お話は出来なくて泣くだけ。お洋服も着られません。でもすごいことが出来るんです。何だか分かりますか。赤ちゃんの顔を覗き込むと、周りの人が不思議とみんな笑顔になるんです。それに「抱っこさせて」とみんな優しくなるんです! そうやって、その赤ちゃんがいると、周りの人たちがみんな嬉しそうになります。赤ちゃんが何か特別に祝福してくれている訳ではない。ただ顔を合わせると、それだけで自ら、祝福に包まれてしまう。
神様はアブラハムに、あなたを呪う者を私は呪うと言っておられますが、アブラハムが特別に呪う訳ではありません。アブラハムに心を向けないこと自体が、神様からの祝福を要らないと周りの人が自分でそうしてしまう。もったいないことです。アブラハム自身は呪いません。祝福するだけ。アブラハムの使命は祝福だけです。地上の氏族は全てあなたによって祝福に入るとある通りです。アブラハムがしたことは祭壇を築いて、礼拝をささげて神様に心を向けたことです(七、八節)。
このアブラハムの姿は、イエス・キリストを証しています。主イエスが地上の人生で見える形で弟子たちに為さったこと、それは、イエスは手を上げて彼らを祝福された(ルカ二四・五〇)。
それなら、私たちはというと、今日も礼拝に集ったというのは、イエスさまに会いに来ました、イエスさまに心を向けています、ということです。するとそれだけで、私たちはイエスさまから祝福を戴いているんです。もしピンとこないのだったら、クリスマスの布にくるまれた飼い葉桶に寝ている乳飲み子イエスさまを思い起こしてみて下さい。それだけで、皆さん祝福ですよ。嬉しくなります。あの晩、羊飼いたちも、その後の東から来た学者さんたちも、みんな嬉しくなって喜びました。賛美しました。だから、礼拝では讃美歌を歌います。そして最後には祝祷=祝福があります。
それからもう一つ、それなら私たちは、更に、この私たちが祝福を戴いて、そこから祝福を分かち合う者とさせて戴きたいです。自分と合う人たちが、それだけで祝福を受けるような、そんな私たちになりたいとお思います。無理でしょうか?自分も祝福の源とならせて下さい、と祈り続けてご覧なさい。いつのまにか、そうなりますから。
今日、お花を持って警察署などを尋ねます。きっと、相手の方は祝福を戴いて笑顔になります。