詩篇42篇2~4節
ヨハネによる福音書19章28~29節
「渇く」。十字架上の五つ目の御言葉です。主イエスが見捨てられたり渇くこともないように、十字架なしで、私たちを救うことは全能の神にはお出来になったでしょう。思えば随分遠回りな、もたついたやり方です。でもここに意味がある。
詩編四二篇「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、私の魂はあなたを求める。神に、命の神に、私の魂は渇く」。六節にも「何故うなだれるのか、私の魂よ、何故呻くのか」。鹿が水を求めてせっかく谷底の川にまでやって来たのに、そこには一筋も水の流れはない。口語訳では「神よ、鹿が谷川を慕い喘ぐように」と表現していました。慕い喘ぎ、うなだれ、呻き、思い乱れ、がっかりして、途方もなく、望みを失う。その時には鹿も(鹿に言語があるなら)ひと言「渇く」と漏らしたか。
「渇く」と主イエスが言葉になさった時、身体的な渇きとその苦痛、喘ぎの中にあったことは確かです。あの詩編二二篇、「私の神よ、私の神よ、何故私をお見捨てになったのですか」から始まるその一六節にこうあります。実際に死ぬ程に渇きを体験したからこその表現です。「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎に張り付く。あなたは私を塵と死の中に打ち捨てられる」。私たち自身が、もしこのような経験をしたなら、その時きっと私たちは知るに違いない。この時この所にも主イエスが共におられると。主イエスが渇くことを体験しておられるからです。たとえ私たちが事故や病の故に、痛くて痛くて祈ることも出来ないその只中に置かれたとしても、そこに主イエスがこの痛みを渇きを担っていて下さる、そのように私たちは信じることが出来る。「神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さる」とパウロがⅡコリント書の初めに語る通りです。
もっとも詩編四二篇は、渇きを何に於いて体験していたかというと身体的渇きに留まりません。四節に「昼も夜も、私の糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と」。一一節にも「私を苦しめる者は私の骨を砕き絶え間なく嘲って言う。『お前の神はどこにいる』と」。これは、信仰者に対する嘲りの言葉です。この嘲りにおいて渇く。今日、思想信教の自由が保障されている日本国憲法下の社会で(それでもキリスト教徒として日本社会で生きるにはそれなりの労苦がありますが)「お前の神はどこにいる」と表向き迫害してくる人は殆どいません。
でも課題があります。信仰者である私たち自身が、時に「お前の神はどこにいる」と呟く。先週は東日本大震災から七年目、思い起こしつつの説教でしたが、そう言えば他ならぬ私自身が「神がおられるなら何故こんな震災が起こるのか」と問いかけ呟いていました。震災被害のような大きな不条理の出来事の時だけではない、小さな様々な出来事でも、もしかすると私たちは呟き、不信仰に陥ってしまう…。そこで信仰がもたついている。そんなことはないと言える人は幸いです…ね。
私は今日、呟くそんな信仰では駄目だと不信仰を叱り飛ばしているのではありません。むしろ、そこにちゃんと、もたつくことが大事だと言いたい。そもそも私たちはいつもテキパキと全てをこなせる訳ではない。人間はもたつくもの。信仰者も時に同じです。必ずしもいつも立派な信仰者であり続ける訳ではない。しかしその時に一つだけ注意したい。その不信仰の故に「どうせ私の信仰なんか」「どうせ私なんか立派じゃございません」と開き直ったり逃げたりする、それが問題。そうではなく、ちゃんともたついたらいい。周りからの嘲りや、自分自身から沸き起こって来る不信仰を受けとめて、私たちも、喘ぎ、うなだれ、呻く。誰かが「お前の神はどこにいる」と嘲る時、その本人は気付いていなくても、本当は神を求めている。私たちが不信仰に陥る時も、本当は「神様いて下さい」と神を求めている。だからちゃんと、もたついて渇く体験を自覚し、そこから「渇く」と言われた主の御言葉を味わうと良い。
主イエスご自身が十字架で「渇く」と仰った時、「メシアなら自分を救ってみろ」と十字架の周囲の者たちから嘲られ罵られ侮られ、そして神からさえも見捨てられながら、「私の神はどこにいるのか」と主イエスご自身が神をお求めになっておられる。周囲の信仰を持たない誰よりも、時に不信仰に陥る私たちの誰よりも深く。私たちも主イエスのこの御言葉を味わえるのではないか。そのためにはちゃんともたつくことが必要です。
ヨハネ福音書一九章二九節以下、人々は酸い葡萄酒を一杯含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口元に差し出し、主イエスはこれをお受けになりました。酸い葡萄酒、酸っぱくておよそ飲める代物ではない。詩編六九篇二一節以下にはこうあります。「嘲りに心打ち砕かれ、私は無力になりました。望んでいた同情は得られず、慰めてくれる人も見出せません。人は私に苦いものを食べさせようとし、渇く私に酢を飲ませようとします」。それは差し出した側から言うと、相手を馬鹿にした嘲りの態度と言えます。でもそれを受けた主イエスの側から見ると、同情を寄せられることもなく、受けとめ難い代物を差し出され、主イエスはそれをお受けになった。言うまでもなく、罪の裁きとしての死をお受けになったのです。酸い葡萄酒をお受けになったのは、私たちが不信仰の嘲りに囲まれ、私たち自身が不信仰に陥っても、尚その時にも、主イエスが私たちと共にいて私たちを慰め、私たちを恵みの中に包むためであり、私たちがその所で、キリストの臨在を見出すためです。
先日、幼稚園と保育園の夫々の職員会議で「キリスト教保育」という定期刊行物の雑誌の文章を分かち合いました。北陸学院の理事長の文章です。キリスト教保育で大事なことは何か。それは子どもに何か出来るようにさせることかという問いです。卒園を迎える時期になると、多くの親は、少しでも漢字が書けるように、九九が出来るように等々と思いを向けるそうです。英語も早い方が良いのかも…。それは悪いとは言いません。
けれども著者は語る。「神に愛されていることを知るだけで良い」。言い切ります。未就学児の発達課題は、親に愛され大人からも大事にされ、大人と社会に対する信頼と生まれて来て良かったという基本的な自己肯定感を持つこと、それが一番大事です。みんな知っていることです。でも親たちは、漢字や九九や英語を覚えさせることに思いが行ってしまう。なぜ未就学時に応じた発達課題の所にもっと、もたつくことが出来ないのか。
それで著者が終わりに語ることは「十字架の主イエス・キリストを見上げていることです」。キリスト教保育・教育の現場で、これをしっかり行うのは意外と少ないのではないか。どれだけ十字架と復活を語っているか。そこで聞くのは、主イエスの生き方であったり、自分に与えられている賜物に気付きそれを活かそう、成績が悪くても落ち込まないで立ち直ろうとの励ましであったり、隣人愛に生きようという倫理であったり…。自分に対しては自分の賜物を見出し活かそうという自己肯定、他者に対しては隣人愛に生きようと他者肯定を目指す倫理を心がける。そして大人の周囲の関係者もそれがキリスト教保育・教育だと思い込む。十字架と復活が抜けた内容でもキリスト教だと勘違いしている。何が他の保育・教育事業と異なるのか。著者は語る。「十字架の主イエス・キリストを見上げていることです」。
それはしかし事業だけの問題ではない。私たちも同じ。私たちキリスト教徒はどこが異なるのだろうか。品行方正で立派な人だったら自分はキリスト教徒ですという事? 十字架を必要としない程に、もたつかない人間を目指すことがキリスト教徒になるという事? そしてもたついてしまったら、こんな自分は駄目です、どうせこんな自分ですと開き直るだけがキリスト教徒? 今一度言いますが、私たちに大事なことは、もたつくこと。十字架を見上げ、そこに聞こえてくる「渇く」、その主の御言葉に思いを留め黙想することです。
私たちは十字架の次には復活があると知っています。復活があるからこそ十字架の意味を理解し、十字架を見上げることも出来ます。しかし、うっかりすると、この受難節をサッサと通り過ぎて復活節の方に思いが行っていないか。丁度クリスマスの時期にアドヴェントなど無いかのようにサッサとクリスマスのお祝いに行ってしまう日本人のせっかちなあの姿を、受難節に於いてもしていないか。ちゃんと受難週、聖金曜日の絶望に入る。「神はどこにいる」と本当に絶望した時に一緒に絶望し渇いてもらうことが、十字架を見上げてこそ起こると改めて思う。本当に絶望している時に十字架を見上げ一緒に絶望して下さい、本当に渇いている所で一緒に渇いて下さい、もちろん水を飲ませて下さいという事になるのですが、その水を得られない時、一緒に渇いて下さる方がおられると信じられる。これこそ幸いなことです。
もっとも戦後の平和で経済成長してきた日本社会で、逆に私たちは、本当に渇き絶望することが出来なくなっているのかもしれない。もしそうであるなら、尚更、十字架を見上げ御言葉にしっかり留まることが大事であると言わざるを得ません。