詩篇130篇1~8節
ヨハネ黙示録22章20節
今日から待降節・アドヴェントに入りました。教会の暦では、今日から一年が始まることになります。その最初の待降節は、旧約時代にい身を置いて、救い主のご降誕を待つ期間です。待降節を迎えて私たちが持つべき一つの問いは、私たちは待っているのか、またどのような思いで待つのかということです。降誕節クリスマスのお祝いに急ぐ前に、少し心を抑えて、待つことに想い向けたいと思います。それで、この待降節の期間、旧約聖書から主に御言葉を聴きたいと思います。
今日は詩編から第130篇を選びました。
「私は主に望みをおき、私の魂は望みを置き、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」。兵隊の見張りが夜の警備についている。暗闇の中から一本の矢が放たれて自分が射られてしまうかもしれない。突然夜の奇襲に遭うかもしれない、その闇の中で、見張りは切実な思いで朝を待つ。そして詩人は「見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」、その見張りの如く、いや見張りが朝を待つにも増して、この詩人は、その魂は、主を待ち望む。
何故だろうか。1節以下にあるように「深い底の淵に」いるからです。そこから詩人は「主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取って下さい。嘆き祈る私の声に耳を傾けて下さい」。主を呼び求めています。そしてそこで嘆いて、祈っています。
何を嘆き、何を祈っているのか。3節「主よ、あなたが罪を全て心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」。罪の赦しを求め祈っていると言って良いでしょう。
深い淵の底とは何か。 深い淵の底という言葉は、註解書によると例えば詩篇69篇3節(p.901)にも出てくる言葉。「私は深い沼にはまり込み、足がかりもありません。大水の深い底にまで沈み、奔流が私を押し流します」……。どんどん押し流されて、どんどん拠って立つ足がかり、信仰の足掛かりを失い、どんどん神様から離れていく。この様子が深い淵の底です。
もう少し別の言い方をしますと…、はたと気が付くと、何も期待しなくなっている、何も待ち望まなくなっている。夢も幻も持たなくなっている。主なる神様に向かって待ち望んで「主よ」と祈ることをしなくなっている。主なる神様の御顔を仰がなくなっている…。だから夢や幻に向かって歴史を開拓する思いもなくなっている。
それは現状に満足しているから呼び求める必要を感じないのかもしれない。ならば感謝をささげれば良いのに…。あるいは逆に、余りの現状の悲惨さに祈っても何も変わらない、待ち望んでも何も来やしないと、何も期待しない心になってしまっているのかもしれない。いずれにしても湯も幻も持たない。神に求めることもしない。神を視野から失っていく。詩人はこれを「罪」と言うのでしょう。
横軸と縦軸という言葉があります。どんどん流されていく。横へ横へと。それは過去→現在→将来の時間の流れ、歴史の流れとも言えます。時代の流れに流される。戦前、男の子たちは、軍国少年になりました。みんな時代の子であります。時代と環境から全く影響を受けないでいる人はおりません。戦後に生きる私たち、30年40年50年生きて来て、その
時代時代の中で一生懸命生きて来たけれども、振り返ってみると何をして生きて来たのか、やって来たことは時代と共に過去に流されていくだけ。ある空虚感さえ持ちます。でもそこに、時代に押し流されないであり続ける縦軸が必要です。主のために人生をささげて生きて来た。それは空しく終わるものではないはずです。流されても縦軸から見て自分がどこにるかが分かる。
詩人が「深い淵の底」と言いました。なぜそう表現したのか。
いや、深い淵の底にいると気が付いたら、私たちは何をするだろうか、そのどん底から、顔を上げて上を仰ぎます。それが縦軸の線です。そしてここで言った。4節「しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」。
この詩人の魂がそれ程までに主を待ち望むのは、それが旧約の時代で、未だ救い主がおいでになっていないからとは言えるでしょう。でも新約聖書の最後にも「アーメン、主イエスよ、来て下さい」と切々たる思いで主を待ち望んでいる。
私たち、キリスト教徒は十字架の縦軸を知っている。赦しはあなたと共にあることを知っている。慈しみが主の下に、主と共にあることを知っている、豊かな贖いも主の下に、主と共にあることを知っている。だから、歴史位の流れの中にありつつ、十字架の縦軸をしっかり打ち込んでもらって、待ち望むっ事が出来る。十字架の縦軸は流されてしまうことはないからです。
説教集
SERMONS