詩編 一六・七~一一
ヨハネ一〇・七~一五
ガラテヤ書の説教を終え、今度はどの聖書個所にしようかと思案していましたが、七月一八日の教会創立記念日を間近にしながら、ヘール宣教師についての書物から、関連のある聖書個所に聞いていこうと思い立ちました。
今、私の手元にある書物は二冊、中山昇著『大阪の使徒 A・D・ヘールの生涯』(一九六五年 ともしび社)と『わらじばきの宣教師 A・D・ヘールに学ぶ』(二〇〇一年 カナン文庫)です。その中から二冊共に載っている部分ですがご紹介します。南北戦争に従軍したヘールが一七歳の時の様子です。文章は著者の文書です。
南北に分かれて同胞が相ひしぎ、相争う戦さである。人々の魂は事毎に疼きを覚えたであろう。そのとき、アレキサンダーのテントはしばしば祈りの場になったという(祈りの為の集会所になったと記録は伝えている「ヘールの生涯」一九頁)。若きA・D・ヘールは既に篤信のクリスチャンとして衆望を担い、戦友たちの良き相談相手となっていたのである。羊は良き羊飼いを知る。それは人の年齢によるのでもなく、学識や資格によるのでもない。ただ心の目が捉える愛の真実というものであろう。十代にして早くも人の魂を牧する器とされ、軍団の厳しい掟の中で、牧者としての人柄が磨かれて行ったのである(『A・D・ヘールに学ぶ』二〇頁)。
「羊は良き羊飼いを知る」。この言葉はヘール宣教師ではなく著者の言葉です。そして「良い羊飼い」と言えば、誰よりもまず主イエスのことです。その上で、まるで羊が良い羊飼いを知るように、戦友たちが、まだ宣教師にも牧師にもなる前の若い一七歳のヘールの所に集まって来た、と著者はある記録を元に記しておられる訳です。
若いヘールの姿の一端を著者の文章を通して知り、私たちが各々、この文章からお思いを広げあるいは深めることが出来ればそれで十分です。ただ一つ語ると、河内長野の地域の人たちは、このようなヘール宣教師に触れて、信頼し、協力したのでした。男子を集めてクリスマス会を開くヘール宣教師にお寺の住職が大日堂を開放し、また女子を集めてクリスマス会を開くヘール宣教師に西條さんがお宅を、開放して下さったのでした。
さて、ここからは聖書の言葉そのものに思いを向けたいと思います。羊は良き羊飼いを知る。この表現からこの聖句を思い起こさせてくれました。私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている (ヨハネ一〇・一四)。主イエスは全世界の全ての人たちを知っている。だから私たちは各々一人ひとり信仰に導かれて、良い羊飼いを知る者とされた。実に幸いなことです。それは、羊飼いたる主イエス・キリストを知っている人は少ないからです。日本では人口の一%。
今日の説教題を「永遠の命を生きる」としました。ヨハネ福音書は、永遠の命を、主イエスの祈りの言葉を紹介しながらこう語っています。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ一七・三)。父なる神と御子イエス・キリストを知るというのは、ただ頭で知識として神様について知っているというのではありません。安心と信頼を以て神様を知っている、主イエスを知っているということです。羊はそのように安心と信頼を以て良い羊飼いを知っている。私たちは、教会に集い、主イエスを知る訳です。
主イエスはこうも語られました。ご自分がこの世に来て下さったクリスマスの意義、目的を語っておられます。「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」(ヨハネ一〇・一〇)。この命は永遠の命のことです。ひと言加えますと、「羊が受ける命」という言葉と、次の「主が捨てる命」という言葉、二回、日本語訳では同じように「命」と訳していますが、元は別々の言葉です。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同一一節)。
良い羊飼いは羊のことを心にかけて(同一三節)おられますので、狼が来るのを見たら命がけで羊を守る。この、主が捨てられる御自身の命、十字架上に献げられる命のことを語っておられます。この命はいわば、身体的な生命のことです。クリスマスのことを受肉と言い表すことがありますが、人となられて肉の身体を受けられた。人が経験します生老病死、身体的喜びも痛みも、神の御子であられる主イエスが経験されて、私たちと全てを共有なさいます。ヘブライ人の手紙は、神と、弱さや罪を抱えた私たち人間との間にあって執成しをして下さる大祭司として主イエスを語ります。イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです(ヘブライ二・一七~一八)。試練を受ける、これは身体の生命を持つ故にこそ主イエスも経験し担える事です。
その試練の究極が死んでしまうこと。主イエスの場合は、羊のために命を捨てる十字架の出来事になる訳です。捨てるというのは、一番元の意味合いは、置くという言葉です。ですから十字架に置けば死んでしまう。狼の前に置けば食べられてしまう。自分の命を相手のために置く。用いる。献げる。そうやって身体の生命を献げるご決意、覚悟を主イエスは語っておられる。
もう一つの、羊が豊かに受ける命。これは「永遠の命」です。永遠と言っても無限という意味ではありません。羊にしてみれば、羊飼いが命を張って守ってもらえる安心感、羊飼いに対する信頼感。永遠の命は、主イエス・キリストにあって神が共にいまし給う、神の御子主イエス・キリストが共にいまし給う、その安心感信頼感を伴います。
さて、今日は旧約聖書から詩編一六編からみ言葉を味わいます。ここには私たちの人間存在を色々な言葉で表現しています。思い、心、魂、からだ。全身全霊を以て主なる神様をたたえて生きる詩人の姿が見えてきます。味わってみましょう。 私は主をたたえます。主は私の思いを励まし、私の心を夜ごと諭して下さいます。私は絶えず、主に相対しています。主は右にいまし、私は揺らぐことがありません。私の心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。あなたは私の魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えて下さいます。私は御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます(詩編一六・七~一一)。この詩編は、時に試練もある身体の生命を生きながら、永遠の命を戴いて生きる人間存在の豊かさを一生懸命言い表そうとしています。この詩編は、体も心も含めて存在全てを以て喜びを表現していますね。それを共に味わう幸いを感じて戴ければ良いと思います。
「クオリティ オブ ライフ」という言葉を聞くようになりました。広がりのある言葉です。
生命の質。身体の生命の質、健康である方が。
生活の質。衣食住とそれを支える財産。
人生の質。生きがい、やりがい、使命感。
人間関係の質。友人、仕事仲間、家族関係の質。
神関係の質。神様との関わりの質です。神が共にいて下さる、という安心と信頼感は、試練の中でも私たちを支えます。自分の罪深さを思うこともあるかも知れません。試練にしても罪深さにしても、人間としての弱さを感じる。でも弱い時にこそ強い(Ⅱコリント一二・一〇 参照)、そういう強さが信仰にはあります。体を以て生きながらも与えられる神関係の質が「永遠の命」です。
そして最近は「クオリティ オブ デス」も言われるようになりました。どのように最期を迎えるか。救急車で病院に担ぎ込まれて管に繋がって死にたいか、延命治療はせずに自宅で家族に囲まれて死にたいか、いや独り暮らしでもヘルパーさんが定期的に来てくれるからお独り様で死んでも大丈夫と思うのか。どのような最期を迎えるにしても、主イエスが共におられる安心感とその後を託せる信頼感は「永遠の命」あってのことです。
患者さんの話を伺うと、私のような人間はとてもじゃない、天国なんかには行けません、と話す方がいます。皆さんはどう思いますか。罪を負って下さる十字架の主イエスがおられる。罪の赦しを宣言なさる復活のイエスがおられる。だから、大胆に信じて良い。この恵みは実に大きい。この事を自覚できたら、死後の不安もなくなります。人生の終わりに神様との関わりをしっかり持って安心して天に希望を繋ぐことが出来ます。
南北戦争の戦場の、明日には死んでしまうかもしれない、もう故郷の家族のもとに帰れないかもしれない。その不安の中でヘールの下に集まって来た若い戦友たち、そのヘールのテントは不安を吐露するカウンセリングの場にもなったでしょう。そして「祈りの場になった」というのですから、共にいて下さるキリストのご加護を祈り、罪の赦しの福音を祈り求める祈りの場になったのでした。