イザヤ四〇・三~五
ローマ一六・二五~二八
「栄光、神に在れ」。教会創立一二〇周年記念、おめでとうございます。この記念礼拝を共にささげることが出来ますこと、感謝申し上げます。この一年間、一二〇周年を迎える心を少しでも整えられたらと願い、説教で『A・D・ヘールに学ぶ』を紐解きながら宣教師の営みを味わってきました。今日は、A・D・ヘールの天に召される最後の言葉を以て締めくくりたいと思います。その言葉はこうです。 「美しい、美しい。主の栄光が私たちを取り巻いて輝いている。主の栄光が私たちの内に光っている。主の栄光は御自身の内に輝く」(二二〇頁)。人は生きてきたように死ぬ、とよく言われます。ヘール宣教師は「主の栄光」と三回も言葉にしました。「栄光、神に在れ」の信仰を以て人生を歩んでこられたから、その最後の言葉が、主の栄光をたたえる言葉であったのです。それ程に、信仰が身についていた、とも言えます。今日は、信仰が身につくことを主題に語ります。
パウロはローマ書の終わりにこう語ります(通常の祝祷、祝福ではなく)。この知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように(ローマ一六・二七)。晩年のローマ書から察するとパウロは殉教の死を遂げたと言われますが、パウロもまた最後の言葉は「栄光神に在れ」の信仰を告白する言葉であったのではないか。そして唯一の神の知恵とは、神は、私の福音すなわちイエス・キリストについての宣教によってあなた方を強めることがお出来になります(ローマ一六・二五)という知恵です。
神の知恵、そのご計画の中で「私の福音」が「あなた方を強める」という知恵、そして「キリストについての宣教によって」知恵が出来事になる。キリストについての宣教と言うと、自分の外に起こった客観的な十字架と復活のキリストの救いの御業を語っています。それはよく言えば、信仰の強さ弱さといったような人間の側の状況に左右されない、キリストの救いの御業を表現しています。しかし、客観的であることは、信仰さえも他人事に留まってしまう。主観に関わる自分の出来事にならない他人事で終わってしまう……。
パウロは「私の」福音と語ります。福音、すなわちキリストの救いの御業が我が事になっている。そしてその私の福音が、あなた方を強める。あなた方を強めるとき、福音の出来事はあなた方の福音にもなる。私の外で起こった十字架と復活のキリストの客観的な救いの御業が、私の福音になる。これはキリストについての宣教によってもたらされ、自分が強められて自分の福音になる。それが聖霊の導きです。私の福音になる、それが、信仰が身につくことです。
この度、証し集を発行しました。「河内長野教会とわたし」。皆さんのお手元にあります。そのあとがきを紹介したい(二三八頁)。編纂員の方のお言葉です。皆様の証しを読む前の自分は、教会の歴史と聞いてもどこか他人事でした。今は、多くの方の、信仰を紡がれた課程や奇跡が、河内長野教会創立一二〇年の今に繋がり、一二〇年前に誕生した河内長野教会が、証しを寄せて下さった皆様の生活や思いに如何に深く関わっていたかを、感じられるようになりました(二段落目、続けて四段落)。この証しを読むことで、少しでも皆様の生活の一部に、イエス様を心に置いて過ごしてきた先達の方の思いが、染み込むといいなと思います。教会の歴史、特に時間を経た過去の歴史は客観的な出来事、しかも自分が生まれる前の事も多い。「どこか他人事でした」。当然です。それが証し集を読むことによって我が事になってくる。そしてこの編纂員の方の終わりの言葉は、「染み込むといいな」。他人事の事が我が身に染み込んでくる。福音が私の福音として身についてくるのと同じですね。
黙示録に 「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちの証しの言葉で、彼に打ち勝った」(黙示録一二・一一)とあります。ここに三つのことを語っています。まず、小羊の血、十字架の客観的な救いの出来事。次にそのキリストの御業を告げる言葉、すなわち福音宣教の教会の姿、そしてと福音を聴き受けとめて信仰によって生きる信徒の証しの姿、この三つです。キリストの昇天後=聖霊降臨からの教会の歴史は、福音宣教の礼拝をささげる教会の姿と、信仰によって証しに生きる信徒の姿とで歴史となって展開する。だから証し集を味わうと、教会の歴史が、自分自身に染み込んできます。
「栄光、神に在れ」。この言葉は河内長野教会の理念聖句と言って良いのではないでしょうか。この会堂を献堂した折、現在の堺教会の斉藤敏夫牧師が毛筆で揮毫(きごう)して下さったのを元にして木材で作製して二階入口扉の上の部分に額にして掲げた聖句です。あの場所に、河内長野教会と掲げず「栄光神に在れ」と記したのは橋本通先生の河内長野教会に託し込めた信仰であったのでありましょう。この額はしかし、その後、台風のために壊れてしまいました。
そこで今日、皆さんに考えて祈って欲しいことがあります。台風で壊れた後、この聖句の額を修復し再現することはありませんでした。それをどう考えるか。栄光が神に在る、客観的な事実です。それがもう我が身に染み込んで掲げる必要がなくなったということか? 他人事でなくどれだけ自分の事として身についていたか?
パウロは 「信仰の従順に導く」(ローマ一六・二六)と記しています。従順というのは救いの客観的出来事が、本当に自分の信仰の告白になり、しかも知的理解だけではなく自分の生きる証しになるということです。パウロは信仰の従順を求めている。
百周年記念誌を編集する課程に於いて、ある方が百年誌のテーマは何か?と問いかけて「自分だったら『栄光神に在れ』が良いと思う」と言われた。それまで記録を残すことに専念していた編集委員は、我に返って、そうしようとなった、とのことです。百年誌にこの題が掲げられて本当に良かった。他人事のまま終わらなかったからです。でも敢えて問うなら、それでは百年周年記念誌以後、今日まで身についていますか? 私たちが自らに対して、自覚すべきことです。
預言者イザヤは 「主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る」(イザヤ四〇・五)と預言しました。イザヤが待ち望んだ主の栄光は、二千年前、主イエス・キリストと共にこの世に現れました。クリスマスの時、主の栄光が羊飼いたちの周りを照らした(ルカ二・九)のでした。そして私たちの所には、キリストについての福音宣教の教会の歴史を通して現れました。ですから。私たち、信仰がどこかに行ってしまったり、弱くなったりと色々ありますが、その様なときこそ、いつでも、教会の歴史、その礼拝から離れないでいることがとっても大切です。私たちの所には教会の礼拝をささげる歴史を通して、主の栄光は現れるからです。もちろん教会は来られなくなっている方たちを覚えて祈ります。その方たちの分も礼拝をささげます。
今日、この後、この教会の理念聖句を、プレートにして、ささやかながらその除幕式を致します。そして会堂の外側にではなく一階受付の所に掲げます。それは礼拝の受付の所で「栄光神に在れ」の御言葉を毎週、心に刻み、礼拝への姿勢を整えるためです。「さぁこれから『栄光、神に在れ』、と礼拝をささげるのだ」とキリストへの礼拝への姿勢を毎週整えます。これによって、証しの生き方にもなるほどに、キリストの栄光をたたえる信仰の姿勢が我が事となって染み込んできます。