日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年7月7日 説教:森田恭一郎牧師

「時は満ち、恵みの定めが現れた」

エレミヤ八・四~七
Ⅰテモテ二・四~七
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ一・一五)。主イエスは、時を宣言して神の国の福音を宣べ伝えて、宣教活動を始められました。私たちは 「何事にも時があり、天の下の出来事には定められた時がある」(コヘレト三・一)という聖句を知っていますが、時が満ちる、そのような定められた時とは何なのか、考えたいと思います。
 「時が満ちる」。事が始まる「時の充満」です。それは例えて言えば、列車が近づいてくる、ホームに入ってくる、ドアが開く。列車に乗る、発車ベルが鳴る、そして「出発進行!」。これから始まる旅への期待に 心がウキウキするような時の充満の始まりです。丁度、そのようなものです。
 「悔い改めて、福音を信じなさい」。本来は明るいものです。列車のドアが自分に向かって開いて、「乗ってくださーい」と招いてい
る。そして、乗り込む、悔い改めは、そういう福音の中へと入り込んでいく営みです……。でも、そうは言っても悔い改めると聞くと、何やら自分の悪い所が指摘されて、まるで叱られるような、どちらかと言うと暗いイメージがあるかもしれません。

 今日は旧約聖書からエレミヤ書を読みました。ここ(エレミヤ八・四~七)を読むと、民の背信を語っています。彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち上がらない者があろうか。どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。起き上がるように、立ち返るようにと悔い改めを求めているのは明らかです。でも、民は悔い改めず、「しかし、わが民は主の定めを知ろうともしない」(七節)。主の定め、それは確かに審きの定めを語っています。
 でも主はこうも言われます。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富或る者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵の業を行う事、この事を私は喜ぶ(エレミヤ九・二二~二三)。神様は、背信の民にそれ見たことかと躊躇なく審くよりも、ご自身の喜びは、慈しみと正義と恵の業を行う事です。主の定めは審きで終わらない。恵みの業がある。エレミヤも、審判預言から救済預言を語るようにと御言葉を賜ります。神様は、裁きを前に悔い改めを求め、審判の後の悔い改めを願っておられます。主イエスもまた、時満ちて神の国の恵の到来を宣言し、悔い改めて福音を信じることへと人々を招いておられる訳です。

 さて、私たち河内長野教会の創立者、A・D・ヘール宣教師のことに思いを向けたいと思います。前回はヘールが一七歳の時、アメリカ南北戦争のさ中、ヘールのテントが祈り場になったことを紹介しました。今日も中山昇著『A・D・ヘールに学ぶ』から紹介します。その南北戦争において、ときの大統領アブラハム・リンカーンが一八六三年「悔い改めの日」を制定したそうです。その文面を少し長いですが、紹介します。
 我々は天が下のありとあらゆる賜物を与えられてきた。長い年月の間、平和と繁栄を受け継いで来た。人口は増え、富と力は増し加えられた。そのようなことは、かつていかなる国にもないことであった。しかし我々は神を忘れた。平和を保ち、民を増やし、豊かにし、強め給う神の慈しみの御手を忘れた。我々の心に巣くう欺瞞は、愚かにも想像した。「これらの全ては、我々自身の知恵と徳とに依るものである」と。かつてとぎれることのなかった成功に酔いしれ、その結果、神の恵と贖いの必要性を忘却するほど自己過信に陥った。創造主たる神に祈ることはないと思うほど傲慢になった。我々は審き給う神の身前にぬかづき、我々が犯した国家的罪を告白し、上よりの憐れみと赦しを請わねばならない。
 この「悔い改めの日」制定の文章は、識者によると、リンカーンが、南北の戦争は北の善と南の悪との葛藤ではなく、北と南の両方の罪が生み出した結果であると考えて、悔い改めを国民に訴えたのだそうです。これを聞いて、皆さんはどうお感じになられたでしょうか。著者、中山昇はこう記しています。多くの人たちの心を素通りしたかもしれないこの訴えが、一人の若者の心の響いて、陣中で伝道の志が与えられたとすれば、深い意味を持つ(『A・D・ヘールから学ぶ』二二~二三頁)。悔い改めの日の制定にあたって、この時、決して多くの人たちではない一人の若者ヘールの心に悔い改めの訴えが響いたのですね。
 そして戦後、一八六六年に聖職を授けられました。按手を授かったということでしょう。
 
 ここから教えられることは、時が満ちるとは、悔い改めへと自分の心が響く時ということです。  次に
パウロは神様の御心を語り、それが具体化するキリストの贖いを語ります。神は、全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただお一人なのです。この方は全ての人の贖いとして御自身を捧げられました(Ⅰテモテ二・四~六)。この文面は、当時の教会の礼拝で歌われた讃美歌か一種の信仰告白の文言であったのであろうと言われています。この文章を引用しながらパウロは、これは定められた時になされた証です(同六節)と語ります。
 ここに定められた時とありますが、それは正に、時は満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさいと主イエスが宣言された、キリストと共に始まった「定められた時」です。

 パウロは、定められた時になされた証を、耳にして、私は、その証しのために宣教者、また使徒として、すなわち異邦人に信仰と真理を説く教師として任命された (Ⅰテモテ二・七)と自覚します。定められた時が満ちたその時に、悔い改めて福音を証しする者へと任命されたと自覚します。悔い改めて福音を信じることへと招かれる。そして同時に福音を証する者へと任命される。それが自分にとっての定められた時ともなる訳です。
 ヘールも同じでした。悔い改めの日が制定されたそのリンカーンの訴えが、ヘールの心に響いて、伝道者としての後の方向を定めていきました。

 主イエス・キリストが「時は満ち」と時の充満を語られたあの時は、主イエスがこの世に来られ、ガリラヤに現れ、十字架にかかられ、死人の内から復活された、二千年前のあの時なのですが、聖霊なる神様は、パウロに対してはパウロに相応しい悔い改めの時を定めて下さり、ヘールにはヘールに相応しい悔い改めの時を定めて下さったのでした。それはキリスト教徒、しかも伝道者として生き始めるための悔い改めの時でありました。

 私たち一人ひとりにも、各々に相応しい悔い改めの定めの時を備えて下って、今の自分に至っていることです。これからも、私たちを悔い改めて福音を信じる時の中に祝福して下さっているのだと信じます。河内長野教会も、一二〇周年に向けての今の時を、神様が改めてキリストを形造っていくための時として定め、祝福の内に歩むようにと招いて下さっておられると信じます。

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