日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年1月19日 説教:森田恭一郎牧師

「拝む心を星は導く」

イザヤ六〇・一~七
マタイ 二・一~一二

教会暦では明日一月六日は公現日で、一二月二五日からこの日までがクリスマス期間です。クリスマスの飾り付けなどもこの日までとなります。 公現日は、キリストが公に異邦人に現れた日です。聖書の記事で言うと、東方からやってきた占星術の学者たちが幼子イエスを拝んだ日です。マタイ福音書では、ご自身を公にお現しになった相手が異邦人の学者たちであったことは興味深い所です。と言いますのは、マタイ福音書はユダヤ人教会に向けて書かれたものであるのに、キリストがご自身を公に現されたのがユダヤ人ではなく異邦人であったことを告げているからです。それでこの福音書は、ユダヤ人伝道と共に、実は、異邦人伝道をユダヤ人に呼びかけています。これは何か、宣教師の精神の原点を示しているように感じます。

さて今日は、マタイ福音書のこの記事から、学者たちを主イエスへと導いた星に思いを向けます。この星は東の方で輝き、占星術の学者たちの目を惹きつけました。その星の輝きは、ユダヤ人の王がお生まれになり、拝むべきお方であることを告げている、と学者たちは受け止めたのでした。それで、エルサレムでヘロデ王に問いかけました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ二・二)。  (それにしても東方の学者たちが何故、ユダヤ人の王としてお生まれになった方に関心を持ち、しかも拝むお方として受け止めたのか、不思議と言えば不思議です。勝手な推測ですが、旧約聖書にこういう言葉があります。 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、 主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ六〇・一~)。もっともこの光は星の光ではなく、救い主ご自身のことです。そして、「シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る」(同六節)。まるで東方の学者たちを予め語っているような文章です(もっともシェバというのは今のサウジアラビアの方です)。イザヤ書は、東方のバビロニアに捕囚として連れて行かれた人達の文章の一つです。彼らがエルサレムに帰還する際、文章は持ち帰ったことでしょう。でも残った人もいて、これらの言葉を言い伝えとして東方の地域に残したのかもしれません。およそ五百年も経っていますが、東方の学者たちはその末裔で、これらの言い伝えの言葉から、彼らも救い主を秘かに待ち望み、「主が輝き出で」の言葉と星の輝きが結びついて、エルサレムへと向かったのかもしれません)。

 

そして学者たちは、エルサレムで旧約聖書のミカ書から、ベツレヘムでお生まれなるという預言の言葉を聴き、ベツレヘムへ向かいます。その様子をこう記します。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びに溢れた(マタイ二・九~)。学者たちが星を見て改めて喜んだのは、星が幼子のいる場所を示してくれたからですが、聖書が預言する通りにベツレヘムであり、星と聖書の言葉が確かに結びついたからでした。そして黄金、乳香、没薬をおささげしました。

それにしても、学者たちが東方から何日もかけて旅をして目的地へと向かう。ユダヤ人の王、救い主を拝むためです。礼拝をささげるためです。彼らは自分たちが聞いていた聖書の言い伝えの言葉に教えられ、救い主を待望する聖なる思いを与えられます。星の輝きを神様の啓示の光と受け止めます。そして言い伝えの言葉を聞き流すことなく、星の輝きをただ見るだけに終わらせることなく、そこに現された神様の御心に応答して生きようとします。学者たちは心躍ったのです。

私たちがこの星の輝きとそれに応答した彼らから学ぶことを二つ申し上げたいと思います。

一つ目は、神様の御心に応答して生きようとする彼らの姿、彼らの姿勢、これは私たちにとっても、私たちの人生を生きる姿、姿勢となります。

クリスマスは御子のご降誕という神様の御業そのものです。その神様の御業は、御子にだけでなく学者たちにも現れている、と言えるのではないか。星が輝いたこのクリスマスの時、神様は学者たちを、幼子を拝む礼拝者として召し出されました。それは神様が学者たちに歴史の人生の中で神の御業を行わせることです。旅するエネルギーは、神様のお言葉と約束を信じる所から生じています。

それと同じように、神様は私たちを、御子キリストを拝む礼拝者として召し出されました。それは神様が私たちに歴史の人生の中で神の御業を行わせることです。人生を旅するエネルギーは私たちにとりましても、神様のお言葉と御国の到来とそれまでの間地上にも御心がなる約束を信じる所から生じています。

二つ目は、星は御子のいます所へと学者たちを導きました。そして学者たちも御子のいます所へと人々を導く星になっています。ヘロデ王に対して、そしてエルサレムの人々に対して。ただ、ヘロデ王は不安を抱きました。エルサレムの人々も皆、同様でした(マタイ二・三)。導きを拒みました。ヘロデにとっては自分に代わる王が生まれるのは不安でした。人々にとってはヘロデ王と新しい王に付く人達の争いが始まってしまうのではないかと不安でした。せっかく学者たちが、御子のいます所を知るきっかけをもたらしてくれたのに、その星の導きを拒んでしまいました。

今の時代、御言葉によって御子のいます所を指し示し、その所で御子を拝むことが出来ますよ、と拝む場所を指し示す働きを担っているのは、つまり星の役割を担っているのは、教会です。だから皆さんも、今日教会に導かれてここに集っておられます。そして御言葉の説教と共に聖餐式が、ここに御子なる救い主がいましたもう、と星となって皆さんを導いています。

また地域の方々にとっても教会が「ここですよ、御子にお目にかかれるのは」と指し示しています。

今年は教会創立一二〇周年になりますが、私たちが思いを合わせ心躍らせたいのは、この地域にありまして教会が星として輝くことです。聖書も語っています。「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は、とこしえに星と輝く」(ダニエル一二・三)。記念講演をして下さった武田宣さんがこう言われました。教会がこのエリヤに絶対必要な社会資源である!という自覚と自信を持ちましょう、と。地域の皆さんも次のように感じて戴けるようにしたいです。教会堂を眺めての存在感、礼拝堂に入っての聖なる空気感、礼拝に参加しての御言葉の安らぎと喜び、皆さんの交わりに入れられて知る人生を生きる証の真剣さ、諸行事に参加しての楽しさ……。教会の出来事と空間が「行ってみたい、また来てみたい」とワクワク感じて戴ける教会は、御子キリストを指し示し、お招きする輝く星です。

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