日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年12月14日 説教:森田恭一郎牧師

「招きへと心の目、開かれる」

出エジプト記 三・一二
エフェソ一・一五~一九

栄光の源である神は、将来に向けて私たちを開いている。先日の祈祷会で、今日のエフェソ書を読みました時に話された言葉です。聖句から広がった黙想のこの言葉を今日は心に留めたい。

 

これはまず、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が(エフェソ一・一七)の聖句から、紡ぎ出されてきた言い方でありました。栄光の源である神、栄光の源というのが御父にこそあるのだ、と感動したくなる所ですが、実は直訳すると、栄光の神。でも栄光の源という訳は味わい深く思います。一四節までの所で私たちは神の栄光をたたえる、と繰り返していますが、それは神御自身こそが栄光であられ輝いておられるからです。私たちは「栄光神に在れ」とほめたたえるのですが、栄光の源は私たちに在るのではない。栄光を神に帰する訳です。

そして一七節からの、どうぞ~下さるようには、教会への執り成しの祈りの言葉です。それでまず、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いて下さるようにと祈ります。心の目が開かれて神を深く知り、その内容の最初に祈られるのが、神の招きによってどのような希望が与えられているか悟らせて下さるようにと続きます。

そして先ほどの、将来に向けて私たちを開くというのは、心の目が開き、神の招きによって希望が与えられている(同一八節)の聖句から紡ぎ出されてきたのです。エフェソ書は、神を深く知り、心の目を開いて下さるようにとエフェソの教会を執り成しています。「心の目」。直訳すると「心の目が照らされますように」。自分で目を開くというより、聖霊なる神様が私たちの目を照らして下さって、神を深く知るように、そして希望を与えられるように導いて下さいます。

旧約聖書の出エジプト記三章でモーセは、イスラエルの民を導き出すように招かれました。それは、神様がモーセを、またイスラエルの民を将来に向けてお開きになるということです。今、行きなさい。私はあなたをファラオのもとに遣わす。我が民イスラエルの人々をエジプトから導き出すのだ(出エジプト記三・一〇)。モーセは「私は何者でしょう」と戸惑いました。そうしたら「私は必ずあなたと共にいる」とお応えになりました。主が共にいて下さるのですから、モーセも主と共にいるようにすれば良い。

この後、神様が御自分のお名前を語ります。それは 「私は在る、私は在るという者だ」(一四節)。この訳では、静的過ぎます。直訳すると「私は、~であろうとする者だ」。動的です。こういう主なる神様が共におられることになると、私たちは将来に向かって導き出される人生になります。   ルカ福音書で受胎告知の記事があります。天使がマリアに告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ一・二八)。マリアはこの主と共にいることへと導かれます。思いがけない仕方で将来が開かれることになりました。そしてマリアは「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」と応じたのでした。モーセと同じですね。            そして洗礼者ヨハネの母となるエリザベトの所に行き「私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです」と主をあがめて歌いました(ルカ一・四七~)。

 

思えば、信仰を与えられるというのは、十字架の罪の贖いを信じるようになることなどと思われることが多いですが、希望が与えられることだ、将来へと開かれることだ、とも言い直せますね。通常、希望は現実には手元にはありませんから、何か儚いものであるかのように感じられますが、聖書の言う希望は、天地創造の前から備えられた神様のご計画に基づくものです。ですから確かなものです。自分が絶望しても神様からの希望は揺らぐことがない。どんな困難に直面しても将来に向けて希望を失わないでいられる。この確かさは、神の招きによって与えられる希望です(エフェソ一・一八参照)。エフェソ書は教会に対してこの希望を語ります。

河内長野教会も創立一二〇周年を記念しましたが、それはただ過去を思い起こし過去に留まるためのものではありません。過去から学びながら、時には意見を交わし、何よりもご計画を尋ね求めながら将来に向けて進んでいくためです。

今日も聖餐の恵みに招かれています。主イエスが、これは私の身体、これは私の血潮。私はあなたと共にいる、と招いておられます。信仰を以て、心の目を照らされて、栄光の源である神は、将来に向けて私たちを開いて下さっている恵みを戴き、私も主イエスと共にいます、とその招きに誠実に応えます。

カテゴリー

過去の説教