詩編一一六・三~七
ローマ 八・二六~二七
「呻く」を巡って今日は三回目になります。被造物の呻き、私たちの呻き、そして聖霊の呻きです。説教として語りましたのは、一回目は呻いても良い、二回目はキリストと共に苦しみつつ、他者と共に私たちは希望に向けて呻くことは出来る。
今日の御言葉は、同様に、「霊」も弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどう祈るべきかを知りませんが、「霊」自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。聖霊が呻いて、弱い私たちを助け執り成して下さいます。
パウロは弱さを語っています。そして主が執り成して下さった内容をある時こう語りました。「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。これを受けて彼は、だからキリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょうと語る事が出来た(Ⅱコリント一二・九)。この弱さは、病か何かだろう、と推察されることが多い身体的弱さです。
あるキリスト教看護短大の教育目標にこういうのがありました。「人の生命は傷つき、病み、死ぬべき弱い存在である。自分と他人とが共有しているこの弱さの自覚と共感と互助こそ、人間理解と愛と感動の基本であって、それが看護の精神の源泉である」。これは、素晴らしい看護とは何かを提示する文章ではなく、「人間とは何か」を示す看護教育目標になっています。看護科ですから結びの言葉は、それが看護の精神の源泉であると記しますが、私たちが読むなら、これは人間精神の源泉であると言い替えて良い内容です。
人間の生命の弱さ、この弱さを自分も他人も誰もが既に共有しています。全て生命は、傷つき、病み、いずれは死ぬからです。でも、この弱さを自覚しているかというと、特に若者たち程、生命力に溢れるばかりで弱さをなかなか意識しない。だから自覚しよう、とこの教育目標は若い学生たちに呼びかけます。もっとも大人だって同じです。特に他人の弱さを心から共有するのは難しい。看護では、精神も含めた身体的弱さです。話を戻しますが、ローマ書の今日の箇所では、その弱さは、どう祈るべきか分からないという信仰的弱さです。
先日、中野ミヤコさんの葬儀を執り行いました。
ミヤコさんも祈りを巡って現れ出て来る弱さと格闘しておられたようです。七十歳の時の文章に、祈りの言葉を探し尋ねておられた様子が窺えます。
真剣に何冊かを読みました。身近な人の一言に傷つき、前向きの姿勢を失った時です。『祈りへの道』『教会に生きる祈り』を再度読みました。更に水野源三さんの詩「砕いて砕いて砕きたまえ」に触れ、今ある自分が神の恵みであることを教えられ、祈る言葉を学びました。
祈りは心の内から自然と湧いて来る思いを言葉にする場合もあるでしょう。でも、弱さの中でどう祈るべきか分からなくなった時、祈りは学ばなければ言葉に出来ない。ミヤコさんが祈る言葉を学んだ水野源三さんの詩はどのような詩だったのだろう、とその詩集を取り出して読んでみました。
御神の内に生かされているのに、自分一人で生きている、と思い続ける心を、砕いて砕いて砕きたまえ。御神に深く愛されているのに、共に生きる人を真実に、愛し得ない心を、砕いて砕いて砕きたまえ。御神に罪を赦されているのに、人の小さな過ちさえも、赦せられない心を砕いて砕いて砕きたまえ。この詩が自分の心に響いて来るのは、自分の心が傷つき弱さを感じている時、もしくはこの詩に触れて自分の強がりに思い至った時でしょうか…。ミヤコさんの内面の深みを感じます。
併せてミヤコさんは、七十九歳の時の当教会の百年史にこういう文章を寄せておられます(途中からです)。その後疎開で堺を離れ、後、農家に嫁ぎ育児と仕事、家庭の多忙な日が続きましたが、神様が共にいて働いて下さることを信じ元気に頑張りました。今も一人で解決できない時、一層の懺悔と赦しを乞い『神さま助けて下さい』と真剣に祈っています。この文章から、ミヤコさんの、お子さんを育てつつ仕事をこなし人生を走り切った頑張り屋の強いお姿を思い起こします。同時に、真剣に祈る、懺悔と赦しを乞う弱さを抱えながら内面の深みをお持ちのお姿を想像します。実際、「神さま助けて下さい」と真剣に祈っています、と弱さを神様の前にさらけ出している。でもそれで良い。聖霊が弱い私たちを助けて下さるから。
それにしてもパウロはどうして、聖霊が弱い私たちを助けて下さり、どう祈るべきかを知らない私たちのために言葉に表せない呻きを以て執り成して下さると気付いたのでしょうか。神様の関わりにパウロが気付いたのは、彼の回心の時です。使徒言行録が三度記しています。まず九章の記事。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「私は、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたの為すべきことが知らされる」。
淡々と表現された外面的出来事を記す記事ですが、初めパウロはこれをどう受け止め、起こった出来事をどう表現して良いか。そしてどう祈って良いのか、何を祈ったら良いのか、皆目見当もつかなかったに違いない。これまでの、神様のためにと思って生きて来た自分の人生が御心に反する生き方だった。それを知り、これまでの自分の人生は何だったのか、彼の心は切なく又戸惑った。「主よ、助けて下さい」と呻くしかない。
その思いを表現したのは二二章の記事。御心に適う人生に変換したい。でも解らない。「私はあなたが迫害しているイエスである」の主イエスの言葉を受けて、パウロは問いかけを一つ挿入している。「主よ、どうしたら良いでしょうか」。将来に向けて新たに生きようとする呻きを、問いかけとして言葉に表現するとこうなった。
次に二六章。「なぜ私を迫害するのか」に続けて主イエスの言葉をもう一文パウロは加えている。「トゲの付いた棒を蹴ると、ひどい目に遭う」。これは一般に、自分より大きな力に逆らっても勝てないよというギリシャ語の慣用表現だと言われます。この理解からするとトゲの付いた棒とは神様のこと、神様に逆らうなという話になります。
でもこの棒をサウロの事だと考えられないだろうか。トゲの付いた棒のようになってキリスト教徒を迫害していたその彼に、主イエスは「なぜ私を迫害するのか」と問いかけています。しかし主イエスは、パウロに対してトゲの付いた棒にはならなかった。敢えて棒と言うなら十字架の棒です。真綿のような愛で彼を包み、裁く言葉を語らず、為すべき事柄へと導き、このように主イエスが出会って下さった。そしてキリストの福音の奉仕者、証人として彼をお召しになりました。
このように弱いパウロを助け、呻きを以て執り成して下さる聖霊の導きをパウロは経験する。恐らくこれを生涯に亘り経験していく。後の二回の記事の時には、この経験を経て理解し表現出来るようになった言葉を、二二章ではユダヤ人民衆に対する弁明の際に、二六章では王様に対する弁明の際に加えて語った。そしてローマ書でも自分の弱さと、聖霊の執り成しを語ることが出来た。
パウロは被造物やキリスト者の呻きを語ってきました。被造物の呻きは虚無に服しての呻き、キリスト者の呻きは待ち望む呻き。そしてキリストの呻きは、既に天に挙げられ神の右に座って執り成す(八・三四) 天からの呻きです。聖霊はというと、地上にあって、それどころか、私たちの中にまでやって来られて、どう祈ったら良いのか分からない私たちと一緒に呻いて執り成して下さる。
けれども、一緒にと言っても、私たちのことが分かっているというだけではない。人の心を見抜く方は、「霊」の思いが何であるかを知っておられます。神様は人間の思い…ではなく、聖霊の思いが何であるかを知っている。そして聖霊も、人間の思いや願い事に従って…ではない。「霊」は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成して下さるからです。
聖霊はこのパウロを神の御心に適うようにするにはどうするかと呻く。聖霊の執り成しは、パウロの思いを共有した上で神の思いをパウロに共有させる執り成しです。だからこそ「主よ、どうしたら良いでしょうか」と希望に向けて前を向かせ、そしてトゲの付いた棒となっていた彼を、真綿に包まれるような神の愛、十字架の福音の出来事に触れさせ、福音の奉仕者として歩ませるようにした訳です。パウロは生涯に亘って、弱さの中で問いかけ、彼の福音の原点に立ち返り、聖霊の力を戴いて、福音を証言し続けた。それを支えたのが自分の中に働く聖霊の呻く執り成しでありました。
祈り 聖霊なる神様。詩編は語ります。どうか主よ、私の魂をお救い下さい。哀れな人を守って下さる主は、弱り果てた私を救って下さいます。安らうがよいと。感謝します。これからも弱い私たちを助け憐れんで下さい。呻きを以て執り成して下さい。今、世界中が呻いています。希望を作り出そうと呻く営みをあなたが支えて下さい。御心を成就して下さい。主の御名によって祈ります。