マタイ一六・一三~二〇
今日はまず、問と答えについて考えます。写真を撮る時、こう呼びかけます。「皆さーん、いいですか。笑ってー。1+1は?」。「ニー」。パチッ。写真を撮る人が1+1は?と問いかけるので、ニーと答えますね。この問いは簡単だから、すぐみんなで答えます。
簡単な問いだけでなく、大事な問いかけがあります。何のために生きるのか、人生とは何か、などは大事な問いです。 福音書の話です。イエス様が嵐を鎮めた時のことです。それで、人々がある問いを持ちました。疑問と言ってもいい。「一体、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」。イエス様についての問いかけです。この問はとっても大事な問いです。大事なことが問われると、その大事なことをまず考え始めますから。 そこで人々はこの時から、考えるようになりました。嵐を鎮めたり、病気の人を癒してあげたり、「心の貧しい人々は幸い、平和を実現する人々は幸い」などと神様の御心を語ったりするこの方は、普通の人じゃないぞ、誰かな、洗礼者ヨハネかな、あの有名なエリヤかな、預言者の一人かな……。 そして今度は、イエス様が弟子たちに問いかけられました。「それでは、あなた方は 私を何者だと言うのか」(マタイ一六・一五)。別の問いではない。例えば、どうしたら商売繁盛するか。どうしたらみんな健康になれるか。どうしたら立派な人間になれるか。これはみんな切実な問いかけです。それがどうでもいいという訳ではありません。
ただこれらは、ここで主イエスが私たちにお尋ねになった問いかけではなかった。この問かけ、今は、教会に来てイエス様がおられることを知って、気が付く問いかけでもあります。この問いかけがあるから考える。 弟子たちも改めて考え、そして今度は答えです。ペトロが代表して答えました。「あなたはメシア(=キリスト、救い主)、生ける神の子です」(マタイ一六・一六)。イエス様はただ特別な素晴らしい人というのではなくてメシア、キリスト、救い主です。生きておられる神様です。ペトロが代表して答えた、イエス様は救い主、生ける神の子です、の答えが、教会の信仰となりました。イエス様は、この信仰を岩と表現しました。信仰は何かフニャフニャした気分などというものではなくて、岩のようなものです。生ける神さまイエス・キリストとの繋がりを表しているからです。イエス様は宣言なさいました。私はこの岩の上に私の教会を建てる (マタイ一六・一八)。この教会があって、教会に来て、イエス様のおられることを知って、問いかけられ、考え、信じて、答えることが出来る。
問いかけを受け、考え、信じて、答えることが出来るのは、教会がイエス様と出会った人々の信仰の答えを、信仰の証言を、受け継いで来たからです。教会にこそ、この問かけがあり、教会でこそ答えることが出来る。今、だんじりをしていますね。今、私たちがそれを見ることが出来るのは昔から毎年、受け継いできているからです。 先日、ノーベル平和賞を日本原水爆被害者団体協議会が受賞したことを私たちは報道で知りました。あの時、広島と長崎のあの場所にいて、大変な害を被りながら生き残った人たちがいる。その人たちは、あの時、あの場所、そしてその後の悲惨な体験を語り継いで来ました。証言と言いますね。でもその方たちもいずれ、みんな天国に行く。この証言を、今の私たちが、これからの世代の人たちが、これから保存し語り継いでいかなければならない。そのことを改めて確認するノーベル平和賞の受賞となりました。 教会の歴史も、あの時、あの場所で、イエス様と出会い、問いかけられ、考え、信じて、答えた信仰の証言を受け継いで来たからこそ、今に伝わっている。河内長野教会の歴史も同じです。受け継いで語り継いでいく。この営みが無ければ、教会の歴史も信仰も、現代世界から消える。 今、日本にいる人たちの内で、どれだけの人たちが、この問いかけと答えを知り、かつ信じているだろうか。決して多くはありません。皆さんは、信仰の貴重な証言者です。その証言はしかし、ただ過去を語る証言ではありません。聖書から主イエスのお言葉、御業、お姿を知り、自分が生きている今の人生でその都度その都度、聖霊の導きを受けて、あなたは今、私にとっても生ける神の子です、と信仰を証言します。そうやって信仰を受け継ぐ教会の歴史は、ここに生かされる私たちが、聖霊の導きの下、今ここで形造っていくものです。