詩編 七八・一~四
エフェソ六・一~四
先週は、語る教師が人格的な神と繋がっているという真理を生徒が掴んだ時の変化、それは聖霊の働きだということを語りました。今日も教会における教育の働きに関わる事柄です。エフェソ書は、子どもの教育を語っています。初めは、子どもたち、主に結ばれている者として両親に従いなさい(エフェソ六・一) と語っていますから、その言い方からすれば、終わりも、子どもたち、父親を怒らせてはなりません、となりそうですがそうはなっていません。父親たち、子どもを怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい(同四節)。父親に対しての命令になっています。育てなさい! 主のご命令です。主のご命令は、その通りにすれば実現する約束です。
『A・D・ヘールに学ぶ』において中山昇はこう語ります。特に記憶したいのは、富田林・長野両講義所が、合併を余儀なくされた苦難の時代があったということである。講義所が名称だけは格上げされて、河南伝道教会と呼ばれることになったが、実際は双方共に自立出来ず、ある時は富田林で、ある時は河内長野で礼拝を守るということが続いた(戦前のことです)。そんな中で息を吹き返すように再起できたのは、この教育に召された人たちが、日曜学校を継続し、子どもたちの教育を守り通したということにある。ヘール先生の教育伝道は河南伝道教会にとって、まさに生命の綱であった(『A・D・ヘールに学ぶ』一七七頁)。
この記事から改めて確認すべき事、それは、河内長野教会は育てるという福音伝道の働きの中で教会として成長出来た。また教会と共に、育てる教師も育てられる生徒も、聖霊なる神様の導きの中で成長させられた、ということです。福音とは主が成し遂げられた驚くべき御業(詩編七八・四)、キリストとキリストの御業です。教会の生命線はこの福音そのものです。そして福音伝道はこの福音を子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう(同)という働きです。福音伝道を教育の営みとして展開する。これが河内長野教会のDNAであるとするなら、福音を教育の営みとして伝えていく教会学校の働き、受洗者教育、受洗後の信仰者教育等、これら教育の働きは、河内長野教会にとって、今日なお「生命の綱」であるということになります。
さて、エフェソ書の育てなさいのご命令を心に留めながら、今日の招きの詞で読みました聖句を併せて味わいます。私(=パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させて下さったのは神です(Ⅰコリント三・六)。これは成長させて下さるのが神様なら、育てるのは聖霊なる神様にお任せすれば良い、ということではありません。育てると成長するは、異なる別の単語です。エフェソ書の育てる働きの内容は、コリント書で言いますと、植えて水を注ぐ働きです。その働きを用いて、神が成長させて下さいます。
マルコ福音書に「成長する種」の譬えが載っています。また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている内に、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである」(マルコ四・二六~二九)。
人が種を蒔きます。当然、水を注ぎ、肥料もやるでしょう、これらの働きは人の育てる営みです。すると成長していく。しかしその人が成長させるのではない。それなら種自身の力で成長していくのかというと、そうでもない。ちょっと考えれば分かる事です。種は種のまま、そこにあっても芽を出し実を結ぶようにはならないからです。土がひとりでに実を結ばせるのです。譬えの「土」とは何か。成長させて下さる神様です。人間で言うと、神様の愛が人を成長させ、この神様に繋がっている教師の姿を見て生徒は変化する。神様に繋がって語る教師も、それに気付かされ変化していく生徒も、そうなるのは聖霊なる神様の御業です。
主イエスがこう言われました。私のこれからの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。私のこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている(マタイ七・二四、二六)。教会も、豊かな福音の言葉を聞いているのですから、育てる働きに歩みたい。「宣教・教育・奉仕」、当教会のスローガンの一つですが、清教学園を産み出して学園は教育の働きを展開しています。教会自身は続けて「育てる」働きに招かれています。教会の教育活動として、教会学校の働き、受洗者教育、受洗後の信仰者教育等、これら教育の働きにおいて、福音の種を蒔き続けます。創立一二〇年を超えて進む教会と教会員私たちの「育てる」働きです。育てなさいのご命令は、その通りにすれば実現する約束への招きです。