ヨブ記四二・一~六
ヤコブ 五・一〇~一一
今日はヤコブ書に促されて、忍耐について思いを深めます。ヤコブ書は語ります。忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います(五・一一)。忍耐する幸せ、どういう幸せなのか。
この一一節の忍耐という言葉は、気長に待つ忍耐というよりは、重荷や苦痛を担い続けるような忍耐を表わす言葉です。その具体例としてヨブを引き合いに出します。あなた方は、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにして下さったかを知っています。なる程、ヨブの忍耐は重荷を負う中で主なる神様との出会いを切実に待ち望んだ忍耐でした。待ち望むとは言え、気長に待つような流ちょうなものではなく、切実なものです。
ヨブ記は、小説のような物語です。歴史的実話ではありません。その書き出しは、ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。ヨブの人物設定をしています。こういう悪を避ける品行方正で欠点のない人は実際にはいない訳です。でもこの人物設定から、人生を襲う苦難についてより明確な形で問題提起をしているのがこのヨブ記です。彼は、財産にも家族にも恵まれ幸せに暮らしていましたが、ある時、全てを失い、本人も死にはしませんが、大変な皮膚病に罹ってしまいます。彼は罪を犯すことない正しい人という人物設定ですから、これらの苦難は彼自身にその原因のない、全くの不条理です。この不条理の中でもヨブは「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(一・二一)、「私たちは神から幸福を戴いたのだから、不幸も戴こうではないか」(二・一〇)と言って、唇を以て罪を犯すことはありません。
でもここからが大変です。この不条理の不幸を背負いながら生きて行かねばならない。それである時には死を願う。「何故、私は母の胎にいる内に死んでしまわなかったのか。せめて、うまれてすぐに息絶えなかったのか」(三・一一)。生まれて来なければ良かったのにと思う訳です。あるいは「何故、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。彼らは死を待っているが、死は来ない」(三・二〇~)。生きていて良いのだとも、これから生きて行こうとも思えない。ここでもし何らかの条件が整うと発作的に自ら命を絶つということもあり得るのかもしれません。でもヨブはそうはなりませんでした。死にたいのに死ねない。ヨブは言う。「日毎のパンのように嘆きが私に巡って来る。湧き出る水のように私の呻きは留まらない。静けさも安らぎも失い、憩うことも出来ず、私はわななく」(三・二四、二六)。嘆き、呻き、わななく。その日毎の営みが始まる。
ここに三人の友人たちが、ヨブを慰めようとお見舞いにやって来ます。彼らはしかし、ヨブの不幸を目の当たりにしながら判断を下します。それはヨブがきっと罪を犯したから、罰を受けているのだ、そういう因果応報思想に基づく判断です。それはヨブには何の答えにもなりません。ヨブは何も悪いことはしていないからです。
友人たちはまた、神に向かって憤りを向けるようなことは不遜だと考えました。友人たちは当時の人生訓の知恵に従って、色々と諭そうとするだけです。正論かもしれません。でも結局、ヨブの苦悩を理解出来ない。傍らに居続けることが出来なかった。それでヨブは「そんなことを聞くのはもう沢山だ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」(一六・二)。慰めようとしてお見舞いに来たはずの友人たちと、真の慰めを必要としているヨブの溝は深まるばかりです。
友人たちとのやり取りをしても埒(らち)があかない、ヨブの矛先は一層神に向かっていきます。何故、自分がこのような不条理の苦難、その不幸に遭わねばならないのか、知りたいと。「この皮膚が損なわれようとも、この身を以て、私は神を仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(一九・二六~)。
ヨブは、不条理の大変な不幸の中で、それでも自ら命を絶つことに至らなかった。それは恐らく、嘆き、呻き、わななき、腹の底から神を焦がれることが出来たからです。先週のヤコブ書の言葉で言えば、不平を言う。それが神に向かって出来たからです。ヤコブ書は、互いに不平を言わぬことだと記しますが、神様に不平を言ったらいけないでしょうか。それは、御名を汚すことでしょうか。むしろ、神様を真に信頼するが故に文句を言える。不平を言いつつも神様に向かう信頼の姿でしょう。重荷を負いながらも神に向かって問い続けました。不平を言ってはいけないというのではありません。ただ神様に隠れてブツブツ不平を言うのではなく、むしろ、神様に向かって堂々と不平をぶつける。ヨブはそれをしました。それを独りでしました。
そして、ヨブは語り尽くした(三一・四〇)。人は語り尽くして、わだかまる思いの内を吐き出して、心を空っぽにしてから初めて、神の御声を聴く姿勢が整うのでしょう。
出来る事なら、友人たちもヨブと一緒に神に向かって不平を言う所に立てたら良かった。教会の私たちも同じです。課題を背負って嘆く友がいたら、嘆きが神様に届くように「神様にぶつけようね」と共に文句や不平をこぼしつつも嘆き祈る。その重荷を負いながら、御心の天になる如く地にも…と祈ってみる。そして待ち望む。御心が見えて来ますように、御心が成っていきますように。私たちもこういう相互牧会の出来る者でありたい。
話を戻しますが、ヨブは語り尽くした。そこまでが大変であったと思います。一方で三人の友人との埒のあかない度重なる議論もさることながら、他方、神様は沈黙したままです。応答がない。先週、神様は扉を開けている。課題は私たちが扉を開けるかどうかというようなことを申しましたが、ヨブ記では逆に、不条理の苦難を巡って神様からの応答がない、神様の扉を幾ら叩いても開かない。嘆き、呻き、わななき、不平を言う。それでも腹の底から焦がれて叩き続けるのが、ヨブの忍耐です。そのように神に向かい続け、語り尽くすことを通して、そこから神のお姿が見えてくるのかもしれません。そうやって見えて来たのが、三八章以下の神の応答のお言葉でした。
その内容は、ヨブが問い続けた不条理の苦難や不幸が何故あるのか、その理由を語るものではなかった。一言で言えば、全能者で創造者である私があなたと共にいる、それだけの返答です。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたと言うなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか(三八・四)。以下、宇宙、天地万物、自然世界の不思議を挙げながら、人間の知恵が及ばないことの数々を明らかにしていきます。
ヨブは応えて下さった主なる神様を前に脱帽します。ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることは出来ないと悟りました。そして、あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それ故、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます(四二・二、五、六)。神様が応答して下さり、その神様を仰ぎ見ることが出来た。ヨブの期待した答えは無かったのに、それでヨブは満足する。家族や財産を取り戻せた訳でもないし、自分の病が治った訳でもない。不幸の只中で幸いを見出しています。インマヌエル、神が共におられるその臨在に接すると人間の問いは消えている。
ヤコブ書に戻って、忍耐した人たちは幸せだと、私たちは思います。忍耐する幸せ、どういう幸せなのか。主なる神様がヨブに最後に問いかけた言葉はこうです。「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとする者は。聞け。私が話す。お前に尋ねる。私に答えてみよ」(四二・三、四)。これは偉そうにして神様を問い詰めていたヨブに、神様が厳しく返答している言葉のようです。が、ヤコブはこう記していました。あなた方は、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにして下さったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです(ヤコブ五・一一)。主なる神様は実は、慈しみ深く、憐れみに満ちたお方として、ヨブに現われておられたのかもしれません。私たちも、嘆き、呻き、わななき、不平を、神様に向かって言い続けられる者でありたい。そうやって忍耐して神様の扉を叩き続けると、私たちが待ち望む神様のお姿が見えてくる。ヤコブ書はそう語っているようです。
実は私たちは神様を知っています。十字架にかかられたキリストのお姿です。そのお姿は、神の御子たるお方が、自らは何も罪を犯しておられないのに十字架に付けられる、正に不条理を身に負ったお姿です。キリストもまた不条理の理由を問う。「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」と。神様は不条理の問いを身を以て知っている神様だから、ヨブと共にいることも本当にお出来になります。ここに主の慈しみと憐れみがあります。