詩篇30篇3節、12~13節
ルカによる福音書17章11~19節
今日は、子どもたち、ご家族の皆さん、ここに集って下さり共に礼拝をささげることが出来ますことを心から有難うございます。
午後ミカン狩りに出かけます。それで今日は大きいミカンと小さなミカンをここに持ってきました。何故こちらのミカンは大きいのに、こちらのミカンは小さいままなのでしょう? それは大きいミカンは、きっと枝に繋がっている時間が長かったのだと思います。木から枝を通して栄養をもらいます。お日様の陽もたくさん浴びて、その分ミカンの実は大きくなります。
皆さんがご飯を食べて体が大きく強くなるのも同じです。ご飯をときに、戴きますと言います。お魚を食べるとき、魚は自分の命をささげてくれて、私たちはその栄養を摂るのですから、有難う、戴きますと感謝して戴きます。ミカンを食べるにしても、野菜や肉を食べるにしても同じですね。
今日は、感謝の実が大きくなった人と小さいままの人のお話です。
イエス様はエルサレムに向かって旅をしていました。十字架に架かるためです。ガリラヤからサマリヤへと向かう途中、病気の人たち十人が、主イエスを出迎えました。これまで病気が治らず、周りの人たちも病気がうつるといけないと近寄ってくれません。寂しいな、辛いな、悲しいなと嘆きの生活が続いていました。そうやって村はずれに住んでいる自分たち、自分たちが住んでいる村はずれ、そこを主イエスが通られることに気が付いて、急いで出て行きます。イエス様なら病気を治して下さるに違いないと、イエス様の所に向かいます。それから、遠くの方に立ち止まったまま声を張り上げて言いました。「イエスさま、先生、どうか、私たちを憐れんで下さい」。他の人ではなくて、イエス様を出迎えたというのが良かったですね。気持ちがイエス様に繋がる訳ですから。イエス様に繋がって、ミカンではないですが栄養が注がれて、何もない所に実がなってきます。
そうしたらイエス様は、病気を患っている人たちを見て「祭司たちの所に行って、体を見せなさい」と言われました。十人の人たちは一瞬、思ったかもしれません。「あれっ? 祭司の所に行くだけ? ここで治して下さらないの?」。でもイエス様がそこに行きなさい、と仰るのなら行くことにしよう、とイエス様のお言葉に従いました。すると不思議、不思議。みんな、そこへ行く途中で病気が治りました! 清くされたとか、癒されたとか言いますが、治してもらえたのです。イエス様のお言葉に従うと良いですね。病気が治って、みんな喜んだと思います。十人の人たちの喜びの実が膨らんだことでしょう。
そこで問題です。イエス様のお蔭で病気が治りました。そうしたら、皆さんだったらどうしますか? ああ良かった、とそのままどこかへ行ってしまいますか。
お礼を言いますね。イエス様の所に戻って「イエス様のお蔭で病気が治りました。有難うございます」。詩編にある通り、私の神、主よ、叫び求める私を、あなたは癒して下さいました(三〇・三)と、感謝を言いに行きますね。聖書ではどうでしたか。一六節、そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。やっぱり感謝しました。ここで、イエス様にまたしっかりと繋がります。
でも、あれっ? 一五節を読むと…、その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。何か変ですね。病気を治してもらったのは十人ですよ。それなのに賛美しながら戻って来たのは、その十人の中の一人、一人だけでした…。それでイエス様も、何か変だね、と思われました。一七節、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」。イエス様がこう仰るのも当然です。病気を治して下さったのはイエス様なのですからイエス様に有難うと言わないとね。他の九人はどこにいるのでしょう。イエス様に繋がらない。病気を治して下さったイエス様の所、ここににいないといけませんね。
そしてイエス様は、たった一人、感謝をささげるために戻って来て、主イエスに平伏して礼拝をささげたこの人に、言われました。一九節、それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。イエス様の下にいるこの人、この人だけにイエス様は救いの宣言をして下さいました。
ここでまた問題です。病気を治してもらったのは十人です。その内、イエス様の所に戻って来ないで離れたままイエス様に繋がらない他の九人と、感謝をささげるためにイエス様の所に戻って来たこの一人と、何が違うでしょうか? まず感謝の実が大きい。
それからこの一人の人は、イエス様から「あなたを救った」と宣言してもらいました。それで、この人は、イエス様が繋がっていて下さることを知って、この人もしっかりとイエス様から離れなくなり、もっともっとイエス様に繋がります。そしてこの日からイエス様を賛美する新しい生活が始まります。
みんな病気を治してもらいました。でも、また他の病気になったり、他に辛いことが生じてくるかもしれません。そうなってしまったら「ああ見捨てられた」と思い込んで他の九人は、せっかく付き始めた実もしぼんでしまうのではないですか。
キリスト教は信じたら病気が治る、これを第一にする宗教ではありません。仮に辛い中にあっても主が共にいて繋がっておられることを信じて生きていける、そういう宗教です。
だから、この一人の人は、病気があっても辛いことがあっても、それに邪魔されないで、イエス様に繋がったまま、イエス様を賛美する新しい生活を続けます。イエス様が共にいて救われた者として生きる、そういう者として歩み始めているからです。その時、もっと大きな感謝の実になっています。
イエス様がエルサレムで十字架に架かられたことを、この人が後で知った時、イエス様がご自分の命をささげて下さったお蔭で、病気は治り体も強くされたのだと確信して、また大きく感謝の思いを込めて新しい命に生き続けたことでしょう。
あなたは私の嘆きを踊りに変え、感謝の実をならして下さいました。私の魂があなたをほめ歌い、沈黙することのないようにして下さいました。私の神、主よ、とこしえにあなたに感謝をささげます(詩編三〇・一二―一三参照)。