エレミヤ 七・三〇~三一
Ⅱコリント一三・一一~一二
今日は、真(まこと)の神、すなわち、聖書が証し、主イエス・キリストによって啓示せられた真の神とは、どういう神様なのか、について思いを深めたいと思います。結論は、私たちと共にいて下さいます愛と平和の神(Ⅱコリント一三・一一)です。自分が信じている神様を「愛と平和の神です」と信じ言い表すことが出来るというのは、実に幸いなことです。
今日読みました旧約聖書は、当時、イスラエルを囲む中近東の周囲の人々が信じる一般の神々の姿を語っています。そしてイスラエルの人たち、ユダの人たちが、これまで自分たちを救い出し導いて下さった真の神ではなく、周囲の一般の神々を信じることから来る宗教行為に引きずり込まれていた様子を語っています。
まことに、ユダの人々は私の目の前で悪を行った、と主は言われる。私の名によって呼ばれるこの神殿に、彼らは憎むべき物を置いてこれを汚した。彼らはベン・ヒノムの谷にトフェトの聖なる高台を築いて息子、娘を火で焼いた(エレミヤ七・三〇~三一)。息子、娘を火で焼いてささげてしまう、何とおぞましいことか。こういうことは、中近東だけでなく、世界中にあるようです。南米の古代文化にも、息子や娘を献げたという遺跡が残っている、そんなテレビ番組を以前観ました。自然災害や疫病などの災難や災いなどの災厄(さいやく)があると、神々を宥めるために、自分の子どもたちを生け贄としてささげることが、よくあったようです。
エレミヤ書は真の神様の言葉として続けて語ります。このようなことを私は命じたこともなく、心に思い浮かべたこともない(エレミヤ七・三一)。またエレミヤ書の別の所ではこう語ります。私はこのようなことを命じたことはないし、ユダの人々が、この忌むべき行いによって、罪に陥るなどとは思ってもみなかった(エレミヤ三二・三五)。神様ご自身が心に思い浮かべたこともなかったし、あなた方がそうなってしまうなどとも思ってもみなかった。
日本ではどうなのか。仏教や神道ではどうなのか、私はよく知りません。ただ、戦前のことを思い起こすと、天皇を現人神(あらひとがみ)とする国家神道において、政府、軍部がしたこと、それを繰り返してはいけません。当時どういう国作りをするか、その国家観は富国強兵でした。教育勅語の下、軍国主義教育がなされて、お国のために命をささげる、天皇陛下万歳と言って死ぬことが最高の美徳とされた。命を閉ざす特攻という発想も生まれる。そういう教育が施された。これも、戦後になって思えば、何とおぞましい、忌むべきことであったか。
戦後の日本は平和・福祉国家を目指す。日本国憲法が基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を掲げていることは、この歴史的反省を踏まえてのことです。これを忘れてはいけません。
清教学園の建学精神をご存知であると思います。神なき教育は知恵ある悪魔を作る。戦前の、軍国青年を育成した日本の教育の反省を踏まえての建学精神です。ミッションスクールの多くが明治期に建てられたのに対して、清教学園が戦後、創立された意義があります。これを将来に向けて前向きに表現して、神ある教育は愛ある知恵に人を導く、これを加えて清教学園の今日の建学精神となっています。この建学精神を恥じてはいけません。
話を戻しますと、私たちの信じる真の神はどのような神様であられるのか。もちろん、軍国青年を育て、特攻や自爆テロを強要するような神々ではありません。聖書が証し主イエス・キリストによって啓示された真の神は、愛と平和の神です。この愛と平和の神がなさったことは、偽物の神々とは反対のことです。私たちの救いのために神の御子、イエス・キリストを、十字架におささげになったということです。このことについては、次週、改めて思いを深めたいと思いますが、この愛と平和の神が私たちのまことの神様であられることを、私たちは深く心に刻みたい。命を閉ざす神様ではありません。永遠の命とは、唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです(ヨハネ一七・三)。