エレミヤ九・二二~二三
エフェソ二・八 ~一〇
あなた方の救われたのは恵みによるのです (エフェソ二・五)とエフェソ書は恵みを強調しています。そして、事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました(同八節)と再び恵みを語ります。そしてここでは、信仰によってと付け加えています。そこで確認したいことが生じます。あなた方の救われたのは恵みによるのか、信仰によるのか、どちらなのか。あるいは恵みと信仰の二つが必要なのか、ということです。答えは恵みにより救われた。恵みだけで十分です。
聖書協会共同訳の訳ではこうなっています。あなた方は恵みにより、信仰を通して救われたのです。信仰によって救われた、から、信仰を通して救われた、になっています。つまり、救われたのは恵みによる。キリストの十字架の故に罪贖われ甦りによって永遠の命の希望が与えられている。これは全てキリストの側の御業、恵みです。それなら信仰は?というと、恵みを私たちが受け取り、私たちに届くのは信仰を通してです。そして一つ加えると、信仰によってというのは、私たちがこの地上の生活を生きるのは、信仰によって生きる。神に従う人は信仰によって生きる(ハバクク二・四、ローマ一・一七)とある通りです。この三つ、恵みにより救われ、恵みを信仰を通して受け取り、信仰によって生きる、
この三つはいずれも聖霊の導きによります。もう一度八節、事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。エフェソ書はここで聖霊を語っていませんが、代わりに人間の業によらない、と語っています。恵みの事実も、恵みを受け取るのも、信仰によって生きるのも、聖霊の御業です。
繰り返しになりますが、誰もが恵みによって救われる。信じてなくてもです。この恵みを受け取り、救われたのだと自覚するのは信仰を通して。そして私たちは信仰によって生きるのです。順番を取り違えないようにしましょう。まず信じたから次に救われるのではありません。最初に恵みの出来事があり、次に信仰を通して受け取り、恵みによる救いを自覚します。また信仰によって生きるから救われるのではありません。信仰によって生きることのご褒美で救われるのではありません。あくまでもまず恵みによって救われる。それはプレゼント、賜物です。自らの力や私たちの行いによるのではありません。恵みによる救いを自覚して、それで信仰によって生きるのですね。
今日の主題は、信仰によって生きる私たちの行いについてです。救われるのはあくまでキリストの側の御業、その恵みによるのであって、私たちの側の信仰によるのでもなく、まして私たちの力や行いによるのでもないとしたら、信仰も行いも必要ないのか。もちろんそうではありません。エフェソ書はこう続けます。なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備して下さった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちは、その善い業を行って歩むのです(エフェソ二・九~)。自分の行いを誇ることなく、私たちが善い業を行って歩むことを求めています。
そこでまた一つの問いが生じます。それは、未信者だって善い業を行います。信仰によって歩む自分以上に、素晴らしい善い業を行って歩んでいる人はたくさんいます。それなら、私たちの善い業は未信者の人たちの善い業と何が違うのか……。 それは信仰によって生きる、そこから生じる善い業であるかどうかの違いです。エフェソ書はこのことについてこう語ります。信仰者の善い業とは神が前もって準備して下さった善い業。神が準備して下さった善い業、信仰によって生じる善い業です。それならば、とまた問いが生じます。信仰者の善い業とそうでない善い業と何が異なる? 例えばボランティア活動に関わったとします。信者も未信者も、誰が携わっても、良い業としての活動そのものは同じです。何も異なっていない?
エレミヤ書は、知恵、力、富を誇るなと語った後に続けます、むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めて私を知ることを。私こそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事を私は喜ぶ、と主は言われる(エレミヤ九・二三)。
この地に慈しみと正義と恵みの業を行うのは誰かというと、まず神ご自身です。聖書協会共同訳では、私こそ主、この地に慈しみと公正と正義を行う者。これを行うのが私だ。こういう私であることを知れ、誇れ、と語っている訳です。
その上で、それでは私たちが信仰によって生きるその行いはというと、神様が「私こそ主」ということが伝わるような善い業いであるということです。私たちが自分を誇りながら善い業を行うのではなく、主を誇る思いから出てくる善い業。主の救いが相手に伝わるように私たちが生きる。そこに、信仰によって生きる私たちの業の意味がある。つまり証しです。証しとは私の善い業の証しよりも、主の救いが相手に伝わることが証です。ここに信仰によって生きる私たちの「善い業を行って歩む」意義があると言えるでしょう。
この私たちの生き方が、自分を誇るのではないようになるために意識すると良いと思うことを、一つだけ加えたいと思います。主を誇るなら、主に感謝するなら、ここから、自分の善い業も自分自身をも「主にささげる」思いで歩むことになるでしょう。それは、誰よりもキリストご自身がご自分を私たちのためにささげて下さった(ガラテヤ二・二〇、ヨハネ一七・一九参照)ことを心に留めるからです。