日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年2月2日 説教:森田恭一郎牧師

「心にかける」

エゼキエル三六・二二~二四
ヨハネ  一〇・一一~一三

「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである」(ヨハネ一〇・一一~一三)。良い羊飼いは羊のことを心にかけています。良い羊飼いとは主イエスのこと、羊とは私たちのことです。主イエスが、あなた方のことを心にかけていて下さいます(Ⅰペトロ五・七参照)。

先週の記念講演会、講師の土橋崇之さんが配布下さった河内長野市社会福祉協議会のパンフレットの題は「ほっとかへん。かわちながの つながり・支えあい推進プラン」でした。社会福祉を別の言葉で言えば「ほっとかへん」なんだなと思いましたが、それは、心をかけているからこそ生じる言葉です。つながる、支えあう、も同じでしょう。そのつながりの中で一人ひとりの居場所が出来る。教会は居場所になり得る所だとご指摘下さいました。教会と地域の繋がりを思う講演でした。

話を主イエスに戻しますと、主イエスが私たちを「自分の羊」と思い、心にかけて、ほったらかしにはなさらない。ご自分の体なる教会を、まず私たちの居場所として下さいました。その居場所は羊の囲いの中だけではなく、囲いの外に出たその所でも、羊飼いの心にかける思いの中に包まれている所はすベて、羊たちの居場所です。

 

宣教師のA・D・ヘールは晩年、六八歳のとき、ハンセン病の外島保養院を訪ねて、それ以来、亡くなられる直前まで、関わり続けられました。そして『A・D・ヘールに学ぶ』の記事に拠りますと、外島保養院の家族教会では二百二人の患者と職員に洗礼を授けられたということだが、この患者たちが、式後「おめでとう」と握手されて、驚き、喜び「はじめて本当に人間の心にふれた」と感激している喜悦の声に、此の世を越えた尊さ、美しさが輝いている(二一六頁)。ハンセン病は接触感染する病気で、当時治療法もなかったので、人々や社会から疎んぜられ、国も隔離政策を取るようになるわけですが、ヘール宣教師は洗礼を授け洗礼式の後に「おめでとう」と握手して下さった。患者たちは「はじめて本当に人間の心にふれた」のでした。心かけてもらった初めての経験、人間の心と心がつながる初めての経験だったのですね。

 

ある老牧師がこう言っておられたことを思い起こします。「人生を振り返って親友と呼べる人が一人でも二人でもいれば、その人生は大成功だ」。手元の国語辞ひいて「親友」を見ると、仲がいい友人、うちとけて付き合っている友だち、とありました。この国語辞典の説明で皆さんは納得しますか。ただ仲が良い、それで親友と言えるのか。続けて国語辞典に「心友」が載っていました。心から理解し合っている友人。これなら納得出来ますか? 知人や仕事仲間なら大勢いる、仲の良い友人もいるかもしれない。でもなるほど、心の友はどれだけいるだろうか。外島保養院の人たちは、ヘール宣教師に出会い人間の心にふれたのでした。

 

今日の旧約聖書にこうあります。私が彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、私が主であることを知るようになる(エゼキエル三六・二三)。捕囚の民がイスラエルに帰還したとき、その捕囚の民を通して、諸国の民は、イスラエルを導く神様って本当にいるのだ、と驚いて、この方が真の神であると知るようになる、というのですね。

もし、心の触れ合う出来事がヘール宣教師と外島保養院の人たちの人間同士の出来事心だけなら、「ヘール先生は素晴らしい」で終わるでしょう。このヘール宣教師を通して外島保養院の人たちが、キリストが主である、と知るようになると神の出来事になります。『A・D・ヘールに学ぶ』の記事はこう締めくくっています。この外島家族教会は、今も、光明園家族教会として信仰は継承され、信徒は忠実に礼拝を守って、神様の栄光をたたえ続けておられる。ヘール先生は素晴らしい、で終わりません。ヘール宣教師を通して主イエスの心に触れ、主イエスが心にかけておられることを知り、神の栄光をたたえるに至りました。

 

教会の私たち同士のつながりも、あるいは地域での人々とのつながりも、心の触れ合いを通して、主イエスが心にかけておられることを知り、神をほめたたえるようになる。これは聖霊の導きです。

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