Ⅰサムエル一・一二―一六
ルカ 一一・九―一三
今日も皆さんよくおいで下さいました。今日は旧約聖書のハンナさんの所から、願いを注いで祈るということについてお話します。
ハンナさんは、ずっと望んでいるのになかなか赤ちゃんを授かりません。そういう悩みを抱えていました。ある日のこと、ハンナさんは立ち上がります。祈るためにです。そして神殿に向かいます。広ーい神殿にただ一人、その柱の近い席に座って、そしてハンナさんは、悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。「万軍の主よ、はしための苦しみを御覧下さい。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授け下さいますなら、その子の一生を主にお献げします」(一〇―一一節)。そうやって祈りました。何回も祈りました。何回も、何回も。
そうしていましたら、この神殿の祭司(教会でいうと牧師です)、エリという名前の祭司が、彼女がここにいると気が付いて、そっと静かに様子を見守っていました。ハンナが主の御前で余りにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心の内で祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった(一二―一三節)。恐らく最初は声を出しながら「万軍の主よ…」と祈っていたのかもしれません。それが何回も何回も長く祈っている内に、その声は無声音になって、(無声音で)「万軍の主よ、私の苦しみをご覧下さい…」。声としては祭司エリの所までは聞こえなくなります。
きっと体を揺らしながら「神様、神様…」、そうやって祈っていました。するとそれを見守っていた祭司のエリは、彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。「いつまで酔っているのか。酔いを覚ましてきなさい」。祭司エリは、お酒に酔っているのだと勘違いしてしまいました。
それでハンナさんは言いました。「いいえ、祭司様、違います。私は深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないで下さい。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです」。ハンナさんはここで、神様に出会う入り口にいます。ある人がこう言ったそうです。「人間というものは、どうしても人に知らせることの出来ない心の一隅を持っております。観念や思想や道徳や、そういう所で人間は誰も神様に会うことは出来ない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことは出来ない」(森有正)。
ハンナさんは、丁度そのように悩み嘆き祈り、深く悩んでいること、訴えたいこと、苦しいことを、心からの願いを注ぎ出して祈っていました。このような祈りの所で神様に出会うのですね…。祭司エリは、その祈りの出来事が分からなかった。
さぁ皆さん、ハンナさんのお祈り、主の御前に心からの願いを注ぎ出す、そういうお祈りです。祈る時に、注ぎ出すようにして祈る。旧約聖書の哀歌、哀歌というのは哀しみの歌、嘆きの歌という意味です。こういう言葉があります。「立て、宵(日暮れ後の時間)の初めに。夜を徹して嘆きの声を上げるために。主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せ」(二・一九)。水のように注ぐ。祈りは、心を注ぐことなのですね。
ここにポット、水差しを持ってきました。普通はコーヒーを入れますが、今日はお水です。コップに入れます。これが水を注ぐということです。
それからもう一つ、ここにジョウロを持ってきました。幼稚園から借りてきました。ジョウロから水をやる時は…。これは水を注ぐと言いますか? 水を撒くですね。種を蒔くように…。水を撒くのと水を注ぐのと何が違いますか? 蒔くのは広くまんべんなく。注ぐのは一か所にということですね。
祈りを注ぐというのは、一箇所に注ぐ。どの一箇所ですか? 主の御前に出て、水のようにあなたの心を注ぎ出せでしたよ。ハンナさんもただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。
主の御前という一箇所に、心を注ぎ出すのですね。
それから、注ぐ時、このポットでは上から、下のコップに水を注ぎます。祈りは、注ぐのですが、主の御前に注ぎ出すのですから、下から上を仰いで祈ります。確かに悲しいから、辛いから、嘆いているのだから下を向いているかもしれない。でもハンナさん、どうでしたか? 立ち上がりましたよ。そして「天にまします神様」と祈るなら、その心は、この嘆きの下の所から、天の上へと。いわば注ぎ上げて祈る。お腹から絞り上げるようにして、上に向けて心を注ぎ上げる。
詩編に「あなたに向かって両手を広げ、渇いた大地のような私の魂をあなたに向けます」(一四三・六)とあります。ある人がこう言っています。「祈る者は罪深い自分をさらけ出して神に向かいます。祈りは単に嘆願ではないからです。神との出会いであります。祈る人は渇いた大地のように、ひび割れたまま天に向き合っています」(小島誠志)。下を向いて手を組んで祈る姿ではない。両手を広げ、心、魂を神様に注ぎ出す姿です。エーンと泣いて悲しい、辛い。その時に、絞り上げ注ぎ上げ、下から上へ、皆でやってみましょう。
そこでエリは、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを叶えて下さるように」と答えた。これは祈り願ったから叶えてもらえるということでしょうか。
主イエスは仰いました。「あなた方の中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなた方は悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」(ルカ一一・一一―一三)。親が魚を与え、卵を与えようとするように、神様は尚更、良いものを備えて下さる。キリストが神の右で執り成して下さっておられ、神様が先に準備しておられる。だから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門を叩きなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門を叩く者には開かれる」(九―一〇節)。
祭司エリも、この神様を信頼して、「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことを叶えて下さるように」と答えた。安心して帰りなさい。そういえば、主イエスもいつもこう仰いました。「あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい」。神様が備えて下さっておられる。その信仰、だから安心して出て行ける。
ハンナさんは、祭司の執り成しの言葉を聞いて「はしためが御厚意を得ますように」と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった(一八節)。明るく爽やかな表情になりました。でもそれは、赤ちゃんを授かったからではありません。まだ授かっていません。であるのに表情が良くなりました。神様がこの自分の祈りに耳を傾けて下さっておられる。そして神様が備えていて下さる。この信仰が彼女を明るくしました。そして、下を向いてうずくまるのではなく、心を高く上げて神様に向かう。だからハンナさんも一緒に出掛けます。一家は朝早く起きて主の御前で礼拝するために。それからラマにある自分たちの家に帰って行った(一九節)。
皆さんも、今日朝早く起きて、主イエスの前で礼拝し、家に帰ります。それは帰るというより、御声を聴いて、新しく爽やかに出て行くようなものです。「安心して行きなさい」。