エゼキエル四四・一五~一九
ヘブライ 一二・五 ~一一
今日のヘブライ書には、鍛錬とか鍛えるという言葉が繰り返し出てきます。親が子どものことを思って鍛えるように、父なる神様は私たち愛する者をご自身の子として鍛錬して下さる。それは私たちを御自分の神聖にあずからせるためなのだ。苦難の中でそう考えよう。概ねそういう内容です。それで神聖にあずからせる(ヘブライ一二・一〇)をめぐって想いを深めたく思います。
エゼキエル書に、祭司が特別の衣服を着て神殿の聖所に入り、聖卓に近づいて務めを行う。民のいる外の庭に出て行く時には着替えねばならない。それは、彼らがその衣服で民に神聖さを移すことがないためである(エゼキエル四四・一九)とあります。つまり、祭司以外の者は神聖にあずかれない。であるのに、驚くべきかな、ヘブライ書では、大祭司、主イエス・キリストのお蔭で、それが良しとされる。いな、むしろそれが私たちの益となるように神の目的になっている。
ヘブライ書が語りかける教会の人たちは、気力を失い疲れ果てて(ヘブライ一二・三)おりました。迫害があり、中には殉教する者もおり、苦難の連続でこの世的には良いことがなかったのかも知れない。苦難はその苦難の質から考えて幾つかに分類出来ます。①まず怪我や病気による身体的苦痛の苦難。②次に目的達成のための苦難。例えば大学入試に合格するための受験勉強の苦難。③また自業自得による苦難。受験勉強をちゃんとしなかったから不合格になったというような苦難の理由が分かる苦難。④それから不条理の苦難。もらい事故や事件、自然災害による苦難。自分の側に理由がない苦難。そのような中でヘブライ書は主の鍛錬としての苦難を言っているようです。鍛錬、例えばお稽古事。お習字やりなさい。お稽古事をさせられる子どもからすれば面白くない。親の考えでさせられる訳で、子を思う親の愛情が伝わらなければ苦痛以外の何ものでもないことになります。でも習字のお稽古も、字が綺麗に書けるようになったと気づき、もっと美しく書けるようになりたいと思うようになれば、それは目的達成の苦難、いや楽しみになっていきます。
ヘブライ書自身がおよそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのです(ヘブライ一二・一一)と鍛錬の辛い面を認めています。その上で主が鍛え給う理由を旧約聖書から引用して説明します。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ一二・六。箴言三・一一など)。私たちをご自身の子として扱い、愛し、それ故の鍛錬。そして、鍛錬の目的を御自分の神聖にあずからせるためと語ります。
ヘブライ書の説明を読んで、当時の教会の人たちは納得するのでしょうか。お稽古事の辛さとは次元が違います。この苦難を通して神は何かを得させようとしている、鍛錬だと思いなさい、と言われて了解出来るのでしょうか。
ある時、ある方(河内長野教会の方ではありません)から相談事の電話を戴きました。今、こういう辛い状況にあるのだがどうしたらいいか。抜き差しならないもつれた人間関係の問題です。この面では自分のせいだし、その面では相手のせいだ。また何でこうなってしまったのか分からない、等々の話をされて、そしてこう問うて来られました。「先生、こういう時、どこの聖書を読めば良いですか。こんな私に相応しい聖書箇所ありませんか」……。問題の解決はもちろんですが、それ以上に、信仰から離れては駄目だと求めておられるのだと思いました。
この求めに合わせて思い起こす聖句はあるにはあるでしょう。例えば、あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます(Ⅰコリント一〇・一三)。あるいはまたヘブライ書の、主は愛する者を鍛えられる。だからこれを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなた方を子として取り扱っておられます(ヘブライ一二・七)。このような聖句を紹介して、皆さんだったら納得されますか。
あの時、私は主の祈りの呼びかけの言葉を思い起こしました。天に在します我らの父よ。「天」に心を向けよう。相手の方も「我ら」の中に含めて祈ろう。「父」であって単なる裁き主の神ではない。あなたをも相手をも愛しておられるから、相手のことを神様に愛されている人として思い起こそう。そう思い起こすのとそうでないのとでは、何かが異なってくるに違いない。そして「父よ」と、何度でも呼びかけ、辛さや想いを投げかけよう。
聖句を語るのも、主の祈りを紹介するのも同じだったかも知れません。ただ振り返ってみると、試みようとしたことは、理屈を語って頑張れと教え諭すことよりも「新たな導きと出来事」が起きますようにと祈りつつお委ねする牧会でした。その方が自らを信仰と祈りの中に置くように招かれることを願い、そして私自身も主の祈りを紹介するようにと誘われたのだと思います。
恐らく、ヘブライ書がここで試みていることは、気力を失い疲れ果ててしまっている教会の人たちへの牧会のアプローチです。霊の父が私たちの益となるように御自分の神聖にあずからせることを、ヘブライ書は指し示します。これは教えてもらって納得する理屈というより、神様がそこへと導く、神聖にあずからせる「出来事」を語っています。
先日、遠藤周作のことを巡るテレビを観ました。彼の両親は仲が悪く離婚して、父は再婚し、母は孤独の内に亡くなっていった。その父に対するわだかまりがあり赦せないでいた。その苦しみが続く。年老いて老人ホームに入所している父を、遠藤周作が晩年を迎えてのある日、息子と一緒に訪ねて、一五分から二〇分、沈黙の内に父の手を握って、帰り際にひと言口にした言葉。それを息子が耳にする。「もう、いいんじゃないかな」。何がもういいのか、本人以外には解釈を必要とするひと言ですが、恐らく、遠藤周作が父を赦したのではないか……。年を経ながら、父の歩みと弱さに共感し、裁くのではなく赦していくプロセスを題材にした番組でした。
この番組を観て思いました。たとえ相手方に百%責任があって、客観的には赦されるべき者ではないとしても、人は相手を赦さないままでいることは苦しい。そして赦すためには父なる神様ご自身の神聖にあずからなければならないということです。番組では、人生にはどんなマイナスのことにも意味があるというような説明もありましたが、人生訓を聞き取るよりも、私は「出来事」として赦しが起こったのだと思いました。遠藤周作が手を握って父親の傍らに佇んでの出来事は、実は、二人の握る手にキリストが十字架の傷まれた御手を添えて下さって起こる赦しの出来事だったのではないか。思い返せば鍛錬でもあった二人の人生のこの時に至るに及んで、御自分の神聖にあずからせる神の出来事が起こったのです。
遠藤周作の場合、彼が晩年になって父の傍らで神の神聖にあずかる出来事が起こった。人によっては、赦せない相手が亡くなってから、神の神聖にあずかる出来事を経験することもあるかも知れません。いずれにせよ、相手を赦し、気付いてみたら赦せないで苦しんでいた自分も赦されている。
聖卓、聖餐卓において執り行う聖餐はまた、主イエスの臨在に触れ、罪を自覚し、罪赦される、その神聖にあずかる出来事です。私たちはこの神聖なる出来事に招かれています。