詩編 六二・二~三
ヨハネ黙示録 八・一~一三
本日は、教会の暦では一番終わりの終末主日です。暦の中に終末を覚える日があるのは、希望の根拠を確認するためです。その日には、全き仕方で神の国が到来する、キリストは再び到来して下さる。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見ると(マタイ二六・六四)と主イエスが約束しておられる通りです。その時、歴史の救いが完成する。もちろん、神の国は主イエスと共に御心が地上にも実現しているとき既に始まっている。しかし、現在は全き仕方で百パーセントにはなっていない。そのような歴史を生きるには、夢、憧れ、希望が必要です。
さて、ヨハネ黙示録は六章から小羊=イエス・キリストが巻物の封印を開く記事を記します。封印が開かれるだけならそれは天に於いて明らかになるだけです。その内容を天使が携え、ヨハネに啓示して初めて地上に明らかになります。八章で第七の封印を開きます。その時七人の天使がラッパを順々に吹いていきますが(同七節~)、そこで起こる出来事は巻物の内容ではなく、封印を開くことに付随して起こる内容啓示への準備です。小羊が開く巻物の内容は、神の秘められた計画、預言者たちに良い知らせとして告げられた通り(黙 示録一〇・七)の福音、即ちキリストの勝利ですが、その記述は一〇章以降です。 八章六節からの七人の天使たちがラッパを吹いて起こる出来事(八・六~)については次回に語ることとして、今日は三節からの香と祈りの記事に思いを向けます。
ここにあります聖なる者たちの祈り、その内容は、真実で聖なる主よ、いつまで裁きを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか(六・一〇)。この箇所の説教でも語りましたが、「主よ、いつまでなのですか」。ここに聖書全体が訴えている問いかけがあります。悪がはびこる、不条理が起こる、主の御名がたたえられない、これはいつまでなのか。神がおられるなら、悪に復讐し悪を滅ぼし御国の支配を現して欲しい……。
今日は詩編六二編を読みました。ここにも、お前たちはいつまで人に襲いかかるのか(六二・四節)と詩人の呻くような、叫びとも言えるような祈りがあります。歴史の中に解決は見えて来ない、神様が応えて下さらないようにも思える。 ある牧師はこう記しました。「まことに不信仰なことですけれども、我々は自分の祈りを信じていない所があります。自分の祈りを信じていないから祈らなくなるのです」と。祈っても神様は応えて下さらないと思うと、自分の祈りを信じなくなる。これを読んで、私たちが自分の祈りを信じなくなるのは、もしかすると祈るしかないという所に立たされていないからか、とも思いました。 詩人は祈るしかない所に立たされた。しかもどう祈って良いのかさえ分からなくなる。祈る言葉を失う。だからその中で、詩人は、私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔。私は決して動揺しない(六二・二~)。とは言え、日々の困難、苦難の中で、動揺しないはずなどない。戦争が起こったとき、ミサイルが飛んでくる中で、誰が平静であり得ようか。戦争はすぐには終わらない。「いつまで」の問を持ちながら、何故、詩人は「動揺しない」などと言えるのか。
私の魂は沈黙して、ただ神に向かうからです。ここではもう、祈る言葉が出てこない程です。沈黙しかない。でもそれは祈らないことではない。それは神への諦めではない。神に向かっているからです。沈黙の内にただ神に向かう。そして、こちらが沈黙する程なら、神も沈黙の内に語りかけ、こちらに向かっておられる。そう信じます。 小羊が第七の封印を開いたとき、天は半時間ほど沈黙に包まれた(黙示録八・一)とあります。この天の沈黙の内に、ラッパを携えた七人の天使と、香炉を持った別の天使が現れたのではないでしょうか。そしてこの沈黙の内に、香を携えた天使の執り成しがあって祈りが御前に立ち昇る。神が沈黙の内に見ておられ語りかけておられる。それ故、神に向かう事が出来る。動揺しないでいられる。 思えば主イエスも、お前たちはいつまで人に襲いかかるのか、の中に立たされました。そして十字架につけられました。そこでの神様の応えはありません。そこでの主イエスの祈りは、「我が神、我が神、何故、私をお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。応えられないままです。その応えのない中で、父なる神に向かって思いをぶつけるようにして祈りをささげます。「私の願い通りではなく御心のままに」(マタイ二六・三九)と自らの祈りを委ねました。祈るからこそ委ねられるし、神が受け取って下さいます。そして、父なる神様が主イエスの祈りを聖めて御心に適うように実現して下さいます。主イエスは、応答のない中で、父なる神様が沈黙の中に自分と共におられる、十字架でそういう祈りの経験をなさいました。
黙示録に戻りますが、天使は香炉と共に香を携えます。香はその香りと共に煙となって上へと立ち昇ります。香は天へと立ち昇り聞き入れられる祈りの象徴です。そして黙示録の八章では、全ての聖なる者たちの祈りに添えて、香の煙は、天使の手から、聖なる者たちの祈りと共に神の御前へ立ち上った(黙示録八・三~四)。「主よ、いつまでですか」の祈りが、私たちの祈りがたとえ沈黙してただ神に向かう祈りであっても、沈黙の内に立ち昇り、神の御前に届く。ヨハネは祈りが確かに御前に届く幻を見せてもらいました。祈りが御前に届いて、受けとめて戴けるのですから、私たちの思いを越えて、そこに希望が訳なのです。