詩編 七四・一~一一
ヨハネの黙示録一三・一~一〇
本日は教会暦の終末主日です。終末とは、主イエス・キリストが父の栄光に輝いて到来なさる時です(マルコ八・三八)。その時には、主イエス・キリストによって啓示され聖書に於いて証しされる唯一の神が真の神であることが明らかになり、万物万民の礼拝が実現すると信じます。
終末主日を覚えヨハネの黙示録を選びました。まず黙示録の説明をしますと、黙示録は、当時のローマ帝国の下で、教会が実際に迫害に遭い殉教者もいた時代に記されました。一二章では天における天使たちと悪魔とかサタンと呼ばれる竜との戦いを記します。竜は勝つことが出来ないまま、地上に投げ落とされ、地上に登場してくる。一三章では、この竜が獣に自分の権威を与えました。獣は当時のローマ帝国や皇帝を意味します。皇帝は自らを神として拝むように人々に求めた。帝国の一般の人々、すなわちあらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民(一三・七)は竜や獣を拝んで言う。 「誰がこの獣と方を並べることが出来ようか。誰が、この獣と戦うことが出来ようか」(一三・四)。出来やしない。こう言ってこの世の権力者に巻き込まれていく。
そして信仰者たちへの迫害が起こる。耳ある者は、聞け。捕らわれるべき者は、捕らわれて行く。剣で殺されるべき者は、剣で殺される。ここに、聖なる者たちの忍耐と信仰が必要である(一三・九~一〇)。教会の信仰者が実際に捕らわれ殺されていく中で、忍耐と信仰が必要であると語ります。ここまでが黙示録の説明です。第二次世界大戦以後の日本では、宗教上の迫害はありませんが、忍耐と信仰が必要とされる聖なる者達=教会の信仰者たち、イエスの証しを守り通している者たち(一二・一七)の信仰の姿を、今日は心に留めたい。
先々週の祈祷会で、戦後当教会に招かれた橋本通牧師の『しもべの道』から 「絶望の淵より神を賛美せよ」(一五頁)を読みました。こう語っています(抜粋)。宗教は、断じて病の安治療や口先のお念仏やへんてこな呪であってはならぬ。真の宗教は、人をその絶望の淵より、死の捕らわれより、罪の地獄より救い出す所の活きた能力、火のような愛、人以上の生命そのものでなければならぬ。神は、キリストにおいてそれを実践し給うのだ。なるほどそうです。救いの御業をキリストは十字架に於いて実践なさったのです。このキリストの故に天上に於いては神の救いと力と支配が現れた(黙示録一二・一〇)のです。そしてキリストの御業を受けての信仰者についてこう記します。信者は神を賛美する。悲しいときも嬉しいときも、神に向かいて力一杯歌い続けるのだ。かくして真の信仰者は、その生涯を挙げて神を賛美する。
橋本牧師の家庭は戦前から、迫害を受けておられたそうです。「絶望の淵」を身を以て経験されていました。その中を忍耐と信仰をもって賛美をささげて歩んでこられました。そしてこう締めくくります。最後には、その死を以て神を賛めたたえるのだ。絶望の淵より、神を賛めよ。救出されよ! 橋本牧師の「死を以て神を賛めたたえるのだ」とは何かご経験から出てくる言葉かも知れません。そして、河内長野教会の私たちに「救出されよ!」と訴えています。
日本の教会は、戦時中、天皇が現人神とされて、それを強制されました。牧師の中には捕らえられて獄死した牧師もいます。河内長野教会も戦時中、主日礼拝の最初に宮城遙拝を強いられました。当時の谷口牧師は病死されましたが、絶望の淵にあったと推察します。以前にも記しましたが、谷口牧師のある日の説教題は「わが心、主を崇む」です。表向き口では、天皇陛下万歳と国民儀礼を強いられても、心では主を崇めているのだ、と精一杯の信仰を、この説教題は告白しています。そういう仕方で谷口牧師は忍耐と信仰の内に教会を守った。苦難→忍耐→練達→希望(ローマ五・三~四)。聖書協会共同訳聖書は練達を品格と訳出しました。困難→忍耐の中で、きっと谷口牧師の品格が滲み出ていたに違いありません。
もっと遡れば、この河内に於いてもキリシタンは時の為政者より大迫害を受けました。その後の隠れキリシタンは忍耐と信仰を以て今日のキリシタン遺跡に思いを込めました。そうやって、キリスト信仰の品格が受け継がれ、今に至っています。
旧約聖書から詩編七四篇を読みました。バビロン捕囚以後、解釈によってはローマ時代に至る、思想信教の自由を奪われた圧政を背景にしている詩編です。この詩編は聴くだけで心に響きます。 神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙を吐き、永遠に突き放してしまわれたのですか。どうか、御心に留めて下さい、既にいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃虚となった所に足を向けて下さい。敵は聖所の全てに災いをもたらしました。あなたに刃向かう者は、至聖所の中でほえ猛り、自分たちのしるしをしるしとして立てました。彼らが木の茂みの中を、斧を携えて上るのが見えると、ただちに手斧、まさかりを振るって、彫り物の飾りを全て打ち壊し、あなたの聖所に火をかけ、御名の置かれた所を地に引き倒して汚しました。「全て弾圧せねばならない」と心に言って、この地にある神の会堂を全て焼き払いました。私たちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。神よ、刃向かう者はいつまで嘲るのでしょうか。敵は永久にあなたの御名を侮るのでしょうか。なぜ、手を引いてしまわれたのですか。右の御手は、ふところに入れられたまま。
旧約の信仰者もまた、苦難の中で忍耐と信仰の内に呻き、叫ぶようにして祈っています。
黙示録に戻りますが、黙示録が明らかにしているのは、当時の厳しい状況の中で、イエスの証しを守り通している(黙示録一二・一七)信仰者たちがいるということです。殉教の死を遂げていった信仰者たちもいた。そのような仕方で信仰者たちは、十字架に死に甦られたキリストを忠実に証した。黙示録が伝えようとしているのは、信仰者たちの証しの事実とその力です。その様な信仰者たちは救われ、他は滅びる、ということではありません。ローマ帝国がその後百年二百年を経てキリスト教が公認され国教にまで至るのには、信仰者の証しの力がありました。復活を信じ、死に対するキリストの勝利を信じる信仰者の証しに力がある。どういう力かというと、あらゆる種族、民族、言葉の違う民、国民(一三・七)、すなわち全ての人たちが悔い改め、真の唯一の神への信仰に導くという力です。信仰者たちの証しの言葉と姿が全ての人々に真実を伝えた。彼らを巻き込むようなその力があるということです。
橋本牧師は「救出されよ!」と私たちに訴えかけました。信仰者は既に救出されているのに、更に「救出されよ!」というのはどういうことでしょうか。そこで黙示録は併せて次の事を知っていることを確認したい。兄弟たちは、小羊の血と自分たちの証しの言葉とで彼(=サタンとか呼ばれる竜)に打ち勝った。彼らは、死に至るまで命を惜しまなかった(黙示録一二・一一)。小羊の血、すなわち十字架のキリストの贖罪だけが勝利をもたらすのではなく、私たちの証しの言葉も神様の勝利に寄与するということです。黙黙示録は私たちの証しの言葉が彼に打ち勝つ天上の事実を知っている。終末のその時には、主イエス・キリストによって啓示され聖書に於いて証しされる唯一の神が真の神であることが明らかになり、万物万民の礼拝が実現すると確信している。
それまでの間、忍耐と信仰を以て私たちはキリストを証する言葉を語って生きる。信仰者のこの地上の営みが終末の完成に役立つのです。黙示録は、迫害の下で、終末の完成に彼らの証しの言葉が役割を果たすことを確信しています。
私たちは今日、幸いにも殉教を求められる状況にはありません。でも自分の置かれた各々の状況の中で、精一杯信仰に生き、賛美を以て賛めたたえていく。このことが、信仰の品格が滲み出てくる証しの生活になっていくことを真剣に受けとめたい。証し集に込められた信仰者の証しの言葉とその姿の意義に改めて気付かされます。証する信仰者の言葉と姿が終末の完成に用いられます。