日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2018年10月14日 説教:森田恭一郎牧師

「将来と希望を」

エレミヤ書29章10~14節
ペテロの手紙一3章15~16節
あなた方の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい(Ⅰペトロ三・一五)。今日は神学校日、伝道献身者奨励日ですが、神様から召命を受け神学生を経て伝道者になる、そこで求められることは、キリスト教徒の抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明出来るようになることです。
私たちの教会の礎を築いた宣教師A・D・ヘール師は「わらじ履きの伝道者」と呼ばれたそうです。わらじを履いて、大阪から和歌山、そして三重に至るまで伝道に励みました。電車も自動車もない時代です。パウロは、神の武具を身に着けなさい。立って真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい(エフェソ書六・一四以下)と語る。わらじ履きに象徴されることは、平和の福音を告げる準備、これを履物として次の伝道地に向かい、福音を告げる。その準備を伝道者は絶えずしている。
弁明する内容は希望です。一章五節に、あなた方は終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られているとあります。神様が準備して下さっている救いがある。あるいは永遠の命、御国の到来、これが希望の内容だと言って良いでしょう。御国が来たら、希望が全て実現する。そして万物の礼拝が起こる。それを来たらすキリストご自身を希望の実体と言うことも出来ます。
あなたの希望は何ですかと問われたら、伝道者でなくてもキリスト教徒であるなら、自分なりに希望について語ることが出来るはずです。

エレミヤ書は記します。バビロンに七十年の時が満ちたなら、私はあなたたちを顧みる(エレミヤ書二九・一〇以下)。顧みて戴ける、これは希望です。捕囚の民になって自分たちを支配しているバビロニア帝国は今や栄華を極めている。我々は捕囚から解放される見通しなどない。それで、反乱を企てイスラエルに戻ろうとした人たちもいましたが、そのような中で主は言われた。七十年の時が満ちたなら。焦るなという訳です。焦って反旗を翻した人たちは、簡単に鎮圧された。
私はあなたたちを顧みる。それは希望なのですが、七十年後というと、その時には自分は生きていない。次の世代か更にその次の世代です。七十年後に顧みられたとしても、それでは自分には意味がない? それとも、たとえ自分が死んだ後でも七十年経ったら神様は顧みて下さる、こう思うと今生きる力になる、と元気になると思えるか?

主イエスは主の祈りで「御国を来たらせ給え」と祈るようにとお命じになりました。御国が来る。世の中がこのまま、人間の罪のまま終わる訳ではない。終わりの時には御心が完成する。そこに希望の実体がある。でも毎日祈りながら、どうせ生きている間には御国は来ない、自分の人生とは関係ないと、どこか冷めた思いで祈っていないか。
主イエスは、続けてこう祈りなさいと仰いました。「御心の天になる如く地にもなさせ給え」。これは、御国が来るまでの間、と思っての祈り。御国は自分の生きている間には来ないと思えても、それまでの未完成の間、人間の罪の思いだけが成るのではなく、御心が少しでも歴史の中に成就しますように。そしてこの願いに支えられて生きていくことが出来ますように。こう祈りながら、希望を捨てないで、信仰者として勇気と使命を以て地上を生きることの励ましを求める祈りです。

長老会では今、一つの議論を重ねています。それは、河内長野教会は五年、十年、三十年後…、この教会が持つべき希望はどのようなものか…。
「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ二九・一一)。幻が儚いイリュージョンではなく、神様のご覧になっている既に天になる如くという神様のヴィジョン、ご計画があると信じて希望と将来を描こう。
是非、皆さんも、皆さんなりに、神様のご覧になる教会のヴィジョンを続けて思い描いて戴きたい。祈り求めて戴きたい。昨年の教会修養会で皆さんに夢と幻を語って戴きましたが、昨年で終わらせないで続ける必要があります。現状維持ではなく、夢、幻、希望を持とう。希望を描いてそこに向ってみんなで進んでいく教会になろうではないか。希望を描いてそこに皆で向かい始めると、そこに新しい動きが始まり、前向きな気持ちが与えられていくに違いない。 長老会もそれを考えながら、来年の一歩、再来年の二歩目、三年後の三歩目を踏み出したいと願っているところです。

弁明できるように備えていなさい。戦いのニュアンスがある言葉ですね。キリスト教信仰に疑いを持つ相手に対して弁明できるように備える。私の最初の弁明の時には、誰も助けてくれず、皆、私を見捨てました。彼らにその責めが負わされませんように。しかし、私を通して福音があまねく宣べ伝えられ、全ての民族がそれを聞くようになるために、主は私のそばにいて、力づけて下さいました(Ⅱテモテ四・一六以下)。こうパウロは言う。周囲に福音を理解する人のいない中での、当時の戦いの様子の一端が垣間見えるようです。
これは更に伝道者に限らず、今の私たちも…。日本では異教の地ですから、キリスト者である自分が家族の中で一人である、あるいは学校で友人たちの中で教会に行っているのは自分一人だけだ、同様の事は会社の中でも、地域社会の中でもあると思います。誰も助けてくれない孤独感に包まれる。それは今日の私たちも同じです。
でもそのような時に、福音を弁明し立証するときも、あなた方一同のことを、共に恵みに与る者と思って、心に留めている(フィリピ一・七)。パウロは一人で伝道しながら、フィリピの教会の人たちを思い起こしている。私は今一人で福音を弁明している、でも、一緒に信じてくれる教会の友がいる。そして応援してくれる仲間がいる。フィリピ教会は気持ちだけでなく物資の応援もしました。戦いの中での言葉なのですね。その戦いの中で、希望について説明を求める者がいたら、いつでも弁明するように用意しておきなさい。これは実は教会の私たちにとって切実な求めです。

この話を聴きながら、これとは反対の聖書個所を思い起こすかもしれない。会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない(ルカ一二・一一)。この個所で、言い訳するというのが弁明するという用語です。弁明が言い訳や弁解になってしまう。言い訳なら何を言おうかと心配するな。聖霊が教えて下さる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、私があなたがたに授けるからである(ルカ二一・一四以下)。ここでは明確に弁明の準備をするなと言われます。
今日のペトロ書の言うことと正反対のようです。聖書から一か所だけを根拠に主張すると偏ることがあります。全体から理解することが必要です。 キリストが語るべきことを備えて下さる。聖霊が備えて下さる。それは、日頃から御言葉を味わい、御言葉に養われ、御言葉を身に着けている、信仰の訓練を前提としています。それがあれば、いざという時に語るべきことを語れるということです。人間的な思いを以て何を語るべきかと思い煩って準備した所で、言い訳になるだけです。だからある意味でぶっつけ本番です。でもぶっつけ本番とは、そこで信仰の実力が明らかになるということです。そこで実力が出るように日頃から御言葉を味わっていることが大切です。そうすれば、語るべき事柄、その言葉は導かれるということです。

言い換えると、日頃から礼拝をささげ御言葉を味わい御言葉に養われる礼拝共同体に属して、礼拝者として整えられていることが不可欠です。
それは神学生も同じです。神学生は神学校に行って勉強すればいいというものではありません。臨床心理士は、カウンセラーとしてプロになるためには、何百時間もの現場実習で患者さんと接しなければならない。神学生はどうでしょうか。神学生にあるのは夏期伝道実習位でしょうか。とても足りません。でも、日頃、教会に集っていることが訓練になります。神学校と教会とで神学教育の両輪になります。教会で自分自身も信仰と教会生活のありようにつき鍛えられていく。
それは考えてみれば、通常の信徒も同じです。希望に向けて訓練されます。自分は家族の中で一人となっても、あるいは不条理にぶつかってその中で自分が一人になっても、そういった課題や不条理の中にあって希望を失わない。その訓練を日頃の礼拝生活の中で自ずと受ける訳です。それがあれば、いざという時に聖霊が導いて下さる。 教会と神学校があって訓練され伝道者が育っていく。当教会から育った伝道者は、最近では駒木亮先生です。皆さんと一緒の中から育たれたのです。

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