日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年1月5日 説教:森田恭一郎牧師

「安らかにさらせて下さる」

ヨブ四二・一~六
ルカ 二・二二~三五

今日、焦点を当てたい聖句は 「主よ、今こそあなたは、お言葉通りこの僕を安らかに去らせて下さいます」(ルカ二・二九)。安らかに死んでいけるということです。皆さんは、何があれば安らかに死ぬことが出来ると思いますか。今日は二つの視点からお話しします。内容は、先日発行の教会便りの一面説教の文章と重なりますが、皆さんで共有したいと思いますのでご了承願います。

安らかに去ることが出来る視点。その一つ目は、自分の人生の充実度です。自分はこの年まで生きて、やりたいことはやってきた。子ども時代、学生時代、兵役のこと、仕事のこと、定年後のこと、そして家族とも良い関係でやってこられた。もちろん色々あったけれど、悔いはない。死んだ後のことについても、相続やお墓のことなどやるべきことはやった。自分の人生をそのように振り返って、悔いがないという意味で人生に未練はない。死も怖くはない。ただ苦しんで死にたくはないけどね……。それで痛みを軽減する緩和医療となります。人生を充実した人生として振り返ることが出来る。そのこと自体は幸いですね。

皆さんはどう思われますか。三つ問が残ります。一つは、充実した人生だったとして、それで皆さんは満足ですか。二つ目は、充実していなかったと思う場合もある。振り返って後悔ばかりが残る。また死はやはり怖い。自分の存在がなくなる。

三つ目は死んだ後どうなるのだろう。そこそこ悪いこともしてきたし……。今まで何も考えずに強がって生きてきたけど、こんなに自分が弱いとは思いもしなかった。それで、こう嘆く人が、聖書の言葉を聴き、罪の赦しや恵みとして天の国を知り、思い起こすことが出来れば、嘆きの中にも平安が訪れるだろうに、とつくづく思います。

それで安らかに去らせてもらえる二つ目の視点は、振り返っての自分の人生の充実度ではなく、神様から戴く安らかさ、安心です。

シメオンは、正しい人で信仰が篤く、自分のことだけでなくイスラエルの慰められるのを待ち望んでいた(ルカ二・二五~)人です。そして主が遣わすメシア(キリスト、救い主)に会うまでは決してしなない、とのお告げを受けていました。メシアにお会いしなかったら死んでも死にきれないということになりますが、確かな約束ですので、安心して生きられたし、実際にお目にかかって「安心して去らせて下さいます」と神をたたえます。  このシメオンの安心は、死ぬ前に孫に会えて良かったという喜びとは異なるように思います。

シメオンは十字架の贖い、罪の赦しを見ています(ルカ二・三四~)。神様から戴く安らかさは、単なる気分を越えて、救いの確かさがある訳です。  私たち信仰者は、聖書の言葉を通して、福音を知っています。シメオンのように、乳児の主イエスを抱きながら 「私はこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ二・三〇)とまでは言えないですが「あなたの救いを信じています」とはっきり言える。これまでの人生がどうであれ、大きな幸いです。「私の救い」の前に「あなたの救い」です。神様の側の救いの確かさを以て包まれます。

さて、ヨブは、人生を振り返ると前半は幸せ一杯でしたが、ある日突然、自分は悪いことしていないのに、この世の幸いを全て失います。不条理です。ヨブ記は元は四二章六節で終わっていたと言われていて、その時点では、失ったものは何も取り戻すことは出来ていない。人生の通常の充実度からすれば全く安らかではないはずです。不幸な人生だったということになるでしょう。

でもヨブは最後こう言います。あなたのことを耳にしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます(ヨブ四二・五)。彼はこれまで、自分の理屈で神に向かってどうして不条理があるのか、何のつもりか、と文句を言ってきました。でもこの最後の所で、悔い改めます。不条理はそのままなのに何故、悔い改められたのか。

それは、今、この目であなたを仰ぎ見ます、と神を仰ぎ見たからです。見たと言う点でシメオンと同じです。私たちは普通こう考えます。シメオンは主イエスと同じ時に生きられたから、自分の目で見られた。けれども私たちは、聖書の言葉を聴いて、救いを確信し、私たちだって「安らかに去らせて下さる」と言えるのだ、と。

しかし、ヨブだって 「耳にしておりました」。聴いているだけです。でも彼は 「仰ぎ見る」。私たちもまた、聴いたことから見る程に確かな信仰へ飛躍する。通常信仰は、見えないものに目を注ぐ(Ⅱコリント四・一八)ものです。でも、改めてシメオン、そしてヨブから問いかけられるのは、自分の困難や死を前にした時にでも(肉眼の目ではなく信仰の目ですが)主イエスをこの目で見ることが出来る程の信仰です。希望に溢れた課題です。

信仰を与えられている幸いを携えて、新しい年を迎えます。

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