出エジプト記二五 ・八~九
ヘブライ 八・一~六
ヘブライ書八章に入ります。七章までの議論、ややこしく難しくなって来たとヘブライ書の記者が思ったのでしょう。今述べていることの要点は、と言ってまとめてくれています。その一点目は、私たちにはこのような大祭司が与えられていて、と主イエスが大祭司であられるというポイントを押さえます。二点目は、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、視点を天に向けさせてくれます。そして三点目は、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。天の聖所で執り成しの業に仕えておられるということです(ヘブライ八・一~二)。
今日は、二点目の「天におられる」ことに思いを目向けたいと思います。五節には「天にあるものの写しであり影」と言って地にある写しや影の本体、実体が天にあると語っています。神様がモーセに命じました。私のための聖なる所を彼らに造らせなさい。私は彼らの中に住むであろう。私が示す作り方に正しく従って、幕屋とその全ての祭具を作りなさい(出エジプト記二五・八~九)。聖所を造るには、神様が示す作り方に従うことなしには出来ない。神様は、その作り方を、シナイ山で示されました。天を見上げる姿勢が求められた。しかもその作り方に従って造る聖所でさえも、天にあるものの写し、影でしかありません。
そして、ヘブライ書記者が今日の箇所で言いたいことはこのことです。旧約時代のレビ系の大祭司は、大祭司の本体、主イエスキリストを示すための写しでしかありません、ということです。大祭司の本体、実体は、イエス・キリストです。主イエスのことを、更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者(ヘブライ八・六)と言っている訳です。主イエスを約束に基づいた、旧約時代からみれば将来実現する大祭司である、と時間的に表現しています。
先日、大橋達男さんの葬儀を執り行いました。先月の礼拝には出席しておらえて声を交わしたばかりでしたから、信じられない程です。脳出血を起こして急変されました。今は天の主の御手の内にあると信じます。大橋さんをある方がこう表現されました。「いつも前を見ていて、将来に備えて今必要なことを見抜くことが出来る。でも周囲の人にはそれがなかなか分からない」。前を見る。空間的でもあり時間的でもあります。昨日の清教学園の理事会でも、大橋さんについてある方がこう語って下さいました。「大橋さんは将来を見ている方だった。二十年程前のこと、幼稚園にバスを導入しようと言われた。当時は、園児たちは徒歩で登園するのが当たり前で、当時の私たちは当初、みんな反対した」。でも、今は当然の如くにバスが園児たちを送り迎えしている訳です。必要だったのです。前を見ていました。
教会でも、これから新たな体制と心構えを以て教会の営みを作り上げていくに当たって、大橋さんの将来を見通す知見に与りたいと願っておりました。それが出来なくなりました。私は、神様が、教会のことは、大橋さんに頼らないで、みんなで考え、みんなで造っていきなさい、と示されたのだ、と受け止めます。
それにしても周囲が反対する中でも将来を見通し抜くというのは大変です。ここで考えること二つ。一つは、そのとき、上を見ていくことです。私たちも教会も前を見て、今必要なことを判断していかねばなりません。以前「約束を受けている者」(ヘブライ七・六)という表現がありましたが、自分の人生を、神様からの約束を受けている人生として見出す。教会もそうです。私たちは地上に生きていますが教会は、天に目を注ぐ、天を仰ぎ見ます。それは将来を見通すことでもあります。神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ三・一四)。目標を目指して前へ向かっているようでありつつ、上へ召されるのです。天にいます主イエスが言っておられるのではないか。「こういう将来を約束するから、そこに向けて今、みんなで考えながら必要なことを一つ一つしていきなさい」。
もう一つは、時に失敗や周囲の無理解があるとき、主の赦しの下に赦し赦されながらという教会経験、礼拝経験があるということです。この二点が、歴史を歩む中に必要です。
この後、聖餐式の恵みに与ります。聖餐もまた、天上の食卓、その実体を現す写し、影のようなものです。でも、その聖餐が実体を指し示しています。想い起こさせてくれます。聖餐式の恵みに与り、私たちは天を見上げ、約束されている将来を見通します。