日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2024年7月28日 説教:森田恭一郎牧師

「天の国はその人たちのもの」

詩編二四・三~六
マタイ五・一~一一

洗礼を受ける。あるいは親の信仰によって幼児洗礼を受けた者が自分で考えて信仰を告白する。そのように導かれた皆さんは幸いです。主イエスは「あなた方は幸いである」(マタイ五・一一)と幸いを語って下さいます。

A・D・ヘール宣教師が洗礼を受けたのは一四歳の時。自らこう記しています(『A・D・ヘールに学ぶ』一四頁)。自宅の草置き場で、私を含めた男子四人がトランプ遊びをしていた。ゲームが終わって、古い馬小屋の裏手にある垣根に凭(もた)れていたとき、私は考えた。「悪いことばかりして生きたあと、そのまま地獄に行くより、クリスチャンになって死んだあと、天国に行ける方が良いかナ?」。 私は回れ右をし、他の子たちをほっておいて馬小屋に入り、我が家の馬がいる仕切りの中に入ってお祈りを始めた。そのとき以来今日に至るまで多少踏み迷ったことはあるにせよ、私は信仰の道を歩んできたと思っている。

これを読んだ著者の中山昇が感想を記しています。入信の動機も素直である。山上の教えの「心の清いものは幸いである、その人は神を見る」を、地で行くような入信である。ヘール少年の入信の素直さを、心の清さとして受け止め、この山上の教えの聖句を思い起こしている訳です。

 

そこで今日は、引用された山上の説教の「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」(マタイ五・八)と、天国に行ける方が良いかナの言葉から「天の国はその人たちのものである」(マタイ五・三、一〇)の聖句を味わいます。

 

さて皆さんは、自分は清い者である、と思いますか。今日、招きの言葉でパウロの言葉を読んで戴きました。私は戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました(Ⅱテモテ四・七)。これはヘール宣教師が「その時以来今日に至るまで多少の踏み迷ったことはあるにせよ、私は信仰の道を歩んできたと思っている」と述懐している言葉から私が思い起こした聖句です。自分の人生を顧みて、使徒パウロも宣教師のヘールも信仰を以て歩んで、走って来れた、と言っている。言ってみれば、清いものとして生きて来たと言っている訳です。

今日の司会者が、司会者として招きの言葉のこの聖句は読みますが、自分としては読みにくい。自分はそんな立派な歩みは出来ていないというようなことを仰いました。もっともなことです。

 

そこで詩編二四編から「清い人」をどう表現しているか見て見たいと思います。これはエルサレム、その山に巡礼のためにやってきた人が、神殿に入場する際に祭司と交わす言葉です。祭司が問いかけます。どのような人が、主の山に登り、聖女に立つことが出来るのか。巡礼者それに応えて言います。それは、潔白な手と清い心を持つ人。

もし教会も礼拝堂に入るために、こういうやり取りが必要だったら、どれだけの人が私は清い心を持っています、と応えることが出来るでしょうか。

巡礼者は清い人についてこう応えます。二四編四節二行目、空しいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人。そして六節、それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

清い人というのは、主を求め、御顔を求める人。律法を守れる品行方正な人というよりも、神殿に礼拝をささげるために来た人ということですね。教会に行くというのも同じです。他の誰かに会えるからではなく、キリストご自身の御顔を尋ね求めて礼拝に向かう。誇れるものがなくて御顔を尋ね求めるしかない。そのままの自分をさらけ出すのでいい。

そのような礼拝をささげる者たちに対して、主はそのような人を祝福し、救いの神は恵みをお与えになる(詩編二四・五)。そして思えば、山上の説教の聖句も、心の清い人たちは幸いである。その人たちは神を見る。御顔を尋ね求めて神を見る。

主イエスの譬え話(ルカ一八・九~)で胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんで下さい」と祈るしかなかった徴税人。御前では、何も誇るものが無かった。憐れみを乞うしかなかった。主イエスは見つめられました。その彼の罪を贖うために十字架にかかって下さった憐れみのキリストの御顔を尋ね求めるだけでいい。

一方、立派な祈りを捧げ、その分、主イエスの憐れみも恵も必要としなかったあのファリサイ派の人。彼にも、十字架の効力は及び、死後天国に招き入れる可能性はあると思いますが、彼はこの地上で神を見ることはなかった、この地上で義とされることはなかった。

 

次に、天の国はその人たちのものである。ヘール少年はあの時、悪いことばかりして生きた後、そのまま地獄に行くよりも、クリスチャンになって死んだ後、天国に行く方が良いと思って、洗礼を受ける決心に導かれたのでした。洗礼をクリスチャンは死後天国に行ける。この素朴な思いは私たちの入信の動機になる場合があるでしょう。でも、もしそれだけなら、死の直前に洗礼を受ければいい、ということになってしまします。信仰によって生きる人生が曖昧になります。

思えば、百%悪い人、百%良い人なんていません。誰であれ多かれ少なかれ悪い所を人生に抱えながら生きている。ヘール宣教師だって踏み迷うことはあった。クリスチャンというのは良い人、罪のない人、ではなくて、キリストの御前に誇るべき何か良いものを何も持たない人。そして、ただただ、御顔を尋ね求めるのみ、ただただ、あなたの慈しみの恵に頼る他ないんですというのが、信仰者の心の貧しさです。でも、心の貧しい人々は幸いである。そして主イエスは、天の国はその人たちのものである、と語ります。

それから私たちは主の祈りで、御国を来たらせ給えと祈ります。天の国は来るものです、誰に所にも、世界中にです。そのとき世界と歴史は完成して神様のご支配が全き仕方でもたらされると信じて祈ります。死んだ後だけでなく地上で天の国を生きることを聖書は語っている。義のために迫害される人々は幸いである。迫害される地上においても、天の国はその人たちのものである、と現在形で語ります。

そしてヘール宣教師は、多少踏み迷ったことはあるにせよ、私は信仰の道を歩んで来たと思っている。少年の時は死んだあと将来のこととして天国へ、と思っていたかもしれませんが、人生を振り返るときになってみると、この地上の営みのその時その時が天の国を生きる営み、信仰によって生きる営みであった、と感謝をささげる者となりました。でもこれは、ヘール宣教師だから、使徒パウロだから特別ということではなく、ささやかであっても私たちもまた、天の国を生きる者、信仰によって生きる者であります。洗礼は、信仰によって生きることのスタートです。

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