出エジプト記一九・三~九
ヘブライ 三・一~六
旧新約聖書、その「約」は契約の約です。その内容は「神様が私たちの神となり、私たちが神様の民となる」ということです。神であり民であるのには双方に忠実であることが求められます。
旧約時代、モーセは神の家全体の中で忠実であった(ヘブライ三・二)。何よりも神様の語られる言葉を聴き、それを民に告げる。それを聴いた民は皆、一斉に答えて、「私たちは、主が語られたことを全て、行います」と言った(出エジプト記一九・八)のですが、結局のところ、民は民として相応しく振る舞うことが出来なかった。それでモーセは、将来語られるはずのことを証しするために、仕える者として神の家全体の中で忠実でした(ヘブライ三・五)。つまり救い主キリストの到来を証ししたということでしょう。
モーセの時代の民だけではない。旧約時代のイスラエルの民は皆、主の御前に相応しく歩めなかった(詩編一一六・九参照)。人間は自力では神様の御前に民として相応しくなることが出来ない。それで旧約聖書全体が、人間は人間を救えないことを明らかにしています。旧約聖書はキリストなしには人間は救われないと、救い主の到来を待ち望む仕方でキリストを証しする証言となります。
聖なる神様が汚れた罪人の神様となられ、そのような罪人が神様の民となるために、両者の間に在ってモーセ以上の内実を以て執成して下さったのは大祭司なる御子キリストです。このキリストを神様はお立てになりました。新約時代になってこのキリストによって、神が神となられ、私たちは民とされて救われるのだ、と証しするのが神の家としての教会です。今日のヘブライ書から気付くことは、父なる神様、御子キリスト、神様の民とされた私たちの三者は、忠実ということで繋がっているということです。今日は、この三者の間の忠実について思いを深めます。
第一に、父なる神様は、まずご自身の造られたものを愛することに忠実でした。それで私たちを愛し抜くために、御子キリストをお立てになりました。また御子キリストに対しては、御子を栄光を受けるに相応しい者と(ヘブライ三・三)なさる仕方で御子に忠実であられました。
第二に、御子キリストはこの父なる神様に忠実でした。イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました(ヘブライ三・二)。その忠実さはこういう形で明らかになりました。それで、イエスは、神の御前に於いて憐れみ深い忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、全ての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです(ヘブライ二・一七)。人間と同じ者となられ、自らをささげて十字架にかかり私たちの罪を贖われたのは、大祭司として御子をお立てになった父なる神様に忠実であられたからです。以上が父なる神様と御子キリストの関係です。
ここからはキリストと私たちの関係です。まずキリストは、私たちにも忠実であられました。キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです(ヘブライ三・六)。一見、人間の集まりでしかないような教会ですが、実はそうではありません。キリストが治めていて下さいます。また私たちは、天の召しに与って聖なる兄弟たち(ヘブライ三・一)とされています。恵みによりて召されたる者が私たちであり、その集いが教会です。神の家=教会をキリストが聖霊を以て治めておられるということです。言い換えれば、聖霊の導きを以て、霊的な賜物を与えて下さるということです。
今日礼拝後に、「教会員の働き」「長老会の役割」「長老定数変更」についての説明会をいたします。教会総会での長老選挙に向けての準備にもなります。私たちの教会には、これまで皆さんが形造ってきた教会の営みがあり、これからも教会を形造っていく営みがあります。ただ今年は、例年通りに続けていればそれで済むというのではない。「これまでのかたち」から「これからのかたち」に移行していく転換の年になります。そのために、この転換をしっかり支えていく私たちの信仰の姿勢はどういうものか、確認しなければなりません。
私たちは天の召しに与っている聖なる兄弟です。キリストの召しと言い換えても良い。キリストに呼ばれ神の家=教会に招かれている私たちです。そしてキリストは、聖霊による霊的な賜物を与えて、神の家を治めて下さっている。これがキリストの私たちへの忠実さです。
聖霊による霊的な賜物の第一は、何よりも信仰です。聖霊によらなければ誰も「イエスは主である」とは言えない(Ⅰコリント一二・三)訳です。そして第二に、賜物には色々ありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めには色々ありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きには色々ありますが、全ての場合に全てのことを為さるのは同じ神です(Ⅰコリント一二・四~六)。こう言って、賜物、務め、働きは色々あっても、それをお与えになるのは同じ聖霊、同じ主キリスト、お一人の父なる神様です。そして私たちはと言えば、キリストの体であり、一人一人はその部分です(Ⅰコリント一二・二七)。
そのようなキリストに対して、今度は私たちが忠実であるとはどういうことか。それは、私たちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい(ヘブライ三・一)とあり通り、イエスが神様から遣わされた神様を体現する使者であり、私たちの罪を贖い執り成し下さる大祭司であると言い表し告白して、主イエスの事を考え思い見る。そして、もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば(ヘブライ三・六後半)とありますが、これも私たちの忠実さを表しています。確信するというのは自由に大胆に言うという意味の言葉ですが、信仰の告白を公に言い表すことと響き合っています。
そして今日、特に申し上げたいことは、ささげるということです。教会に召され、信仰と賜物を与えられた者として、礼拝をささげ、祈りをささげ、賜物をささげます。それが、私たちがキリストに忠実であるということです。
Ⅰコリント書の一二章を読むと、当時の教会の人たちが、与えられた賜物を自由に持ち寄ってささげて活かしている。それが教会の「かたち」になっています。教会のかたちが何か先にあって義務的にやらなければならないというのではありません。 昨年の教会員の働きのアンケート、皆さんの方から「私はこれを担います」と応えて下さったことは、とても大事なことです。また、いわゆる奉仕の働きが担えなくても、礼拝をささげることがキリストに対する一番の忠実さです。礼拝に出席出来ずとも、祈りを捧げるとき忠実な信徒です。この忠実な信仰の姿勢を以て歩みたい。与えられた賜物を強いられてではなく、自由に喜んでささげることによって造られていく教会の「かたち」を目指したいと願っています。
終わりにヘブライ書に戻りますが、もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、私たちこそ神の家なのです。私たちこそ神の家とは、それこそ大胆な言い方です。教会堂の建物ではなく、忠実な信仰の姿勢を以て歩む私たちが、神の家です。神の家の内にあっては、礼拝をささげて神に仕え、祈りをささげ、働きや務めの賜物をささげながら、信仰の確信を分かち合う相互の牧会に歩みます。神様がモーセに告げたことも、イスラエルの民であるあなたたちは、私にとって、祭司の王国、聖なる国民となる(出エジプト記一九・六)ということでした。大祭司なるキリストに忠実であるもう一つのあり方は、私たちが万人祭司(全信徒祭司制)であることです。地域に対しては信仰者として生きることが証になります。