日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2024年11月24日 説教:森田恭一郎牧師

「塔のある町、平安あれ」

エレミヤ二九・四~七
マルコ 九・二八~二九

主はエレミヤに言われました。 「私が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、この町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレミヤ二九・七)。この町とは、イスラエルの民がバビロニアに捕らえられ連れて来られた敵国の異邦人の町です。日本の町は敵国の町ではありませんが、異邦人の町ですから、私たちも「平安を主に祈りなさい」と言われている訳です。河内長野教会はこの地域の町々を覚えて祈りたいと願います。

 

今日は併せて、社会資源という言葉を覚えたいと思います。社会資源とは社会福祉の支援プロセスの中で用いられるもので、病院、社会福祉施設、在宅医療看護のサービスなどを指すことが多いようですが、もっと広く、日々の生活において利用可能な全てのものと考えて良いでしょう。今日、礼拝後には、武田宣(のぶる)さんをお招きして、ご講演を戴きます。昨年の秋、清教学園の宗教週間の折、生徒たちのための特別講演会の講師としてお話し下さったのを私も伺って、教会でも是非、と思い今回お越し戴きました。そのお話を伺ったときに、私の脳裏に残ったことを紹介します。社会資源の例を挙げられた中に、町の本屋さんなどと並んで教会も地域の社会資源の一つとして加えて下さったことでした。これを伺い大事な視点だと思わされました。ご講演で改めてこのことを私たち一同、共有したいです。この地域にあって社会資源としての教会の役割とは何か。ご講演では、その発想といろんな気付きを与えられると思いますが、本日の説教では、まず町のために祈ることが教会の役割だと心に刻みたいと思います。

 

河内長野教会は、宣教師が建てた、この地に植えて下さった教会です。この国のこの町にも必要だと、祈って、建てて植えて下さった教会です。宣教師たちが必要だと導かれたのは、教会だけではありません。親のいない子どもたちのための孤児院も彼らの祈りの中にあったようです(『A・D・ヘールに学ぶ』七六頁、八五頁)。      そして、弟のJ・B・ヘールが記したのは「我々の伝道のごく初期に、学校設立が必要なことが明らかになった」(同七九頁) と記しています。必要になった理由は二つあると言えるでしょう。    一つ目は、日本人牧師や信者を育てるため、また中山昇も記しておりますが、宣教師が、日本政府の軽んじている女子教育がキリスト教の将来を担うもの確信するに至ったからです。一つ目の理由は教会の伝道にとって必要という視点です。   二つ目は、女子の人格を大切にするために女子教育が必要だという理由で、そのために必要な社会資源としての女子教育という視点です。これは、教会も町のために必要な社会資源だということと基本的な視点は同じです。

 

さて『慰めのほとりの教会』という書物から紹介したい文章があります。ヨーロッパの風景です。遠くから車で町や村に近づいてくる者がしばしば経験するのは、村や町の風貌を作っているのが教会堂の塔であるということである。例えば、大聖堂のないケルンなどは考えられないであろう。教会堂の塔、教会堂、これらが一つの都市の象徴的な目印になっていることが多いのである。教会がただ慰めのほとりにあるだけでなく、自分で慰めを与えるものであることを多くの人々が経験するのは、その人が教会から遠ざかっていようが近かろうが、まずこのような塔を目にする時である。教会堂の塔はただ単に一つの都市の象徴的な目印であるだけでなく、天を指している指である。過ちを犯した者、慰めを求めている者たちに対して、方向指示をしている。教会堂が既にその塔を持っているだけで、農村や町にとって慰めとなってくれていることを経験するのである(一三三頁~、メラー著、教文館、二〇〇六年)。日本では、奈良や京都など、お寺の五重塔が同様の働きをしているのでしょうか。そして河内長野教会の教会の塔はこの町にあって、天を指している指として慰めをもたらす役割を担っているのでしょうか。

 

この役割を担うために必要なことや方法はきっと色々あるのだと思いますが、まず祈りです。   福音書の記事を味わいます。あるとき、弟子たちは、ある父の願いに応えてその子の病を癒そうとしましたが出来ませんでした。そこで主イエスに問いかけました。「なぜ私たちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と。主イエスは答えてこう仰いました。「この種のものは、祈りに拠らなければ決して追い出すことは出来ないのだ」(マルコ九・二九)。主イエスに言われるまでもなく、弟子たちだって祈ったと思います。でも病をもたらす悪霊を追い出す能力を弟子たちは祈り求めたのかも知れません。

父親は発作を起こす子どもの癒しを願って、主イエスに懇願しました。 「お出来になるなら、私共を憐れんでお助け下さい」(マルコ九・二二)。すると主イエスは言われました。 「『出来れば』と言うか。信じる者には何でも出来る」。その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のない私をお助け下さい」。ここで主イエスは「信じます」と告白する父親の信仰を造り出して下さいました。そして、悪霊にこの子から出て行くように命じられると悪霊は出て行ってしまいました。その後、主イエスがこの子の手を取って起こされると、この子は立ち上がったのでした。復活を思い起こさせますが、むしろ、手を取って起こされた時の、主イエスのこの父親と子に対する眼差しとお心は、主イエスの祈りそのものだ、ということに思いを向けたい。それは、この親子に対する神様のご計画、御心を仰ぎ見ながらの祈りでした。

 

弟子たちが、もし悪霊を追い出す能力を求めるとしたら、お門違いです。そうではなくて、主イエスの傍らにいて、主イエスのこの親子に対して向けた眼差し、親子を覚えて祈って下さったその祈りに、弟子たちも思いを向ける。弟子たちの願いや能力でなく、主イエスの御心に包まれて、その時に弟子たちも親子のために祈る存在となるでしょう。パウロも語りました。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めて下さるので、私たちも神から戴くこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰める(Ⅱコリント一・四)。神様からの慰めなしに、他者を慰めるのはキリスト教徒の執り成す慰めになりません。

 

河内長野教会は塔のある教会です。町の皆さんにとって慰めをもたらす塔のある教会になりたいものです。先日、カメラのキタムラの河内長野支店に講演会のチラシと「カナンの風」を携えて伺いました。この度、前社長さんの武田さんがお見え下さるのでお越し下さいとお伝えするためです。そうしたら、この日は七五三で職員、皆出払うことになって伺えません、とのことでした。さすが働き者の職員の皆さんのようです。今日の日程を決める前に、職員の皆さんに思いを馳せることが出来たら良かったのに、と反省したした次第です。  教会の塔は十字架が立っている塔です。既に亡くなられたある教会員のお言葉を借りれば、十字架が突き刺さっている塔です。私たちの力ではどうしようもならない自分の罪に十字架が突き刺さって、私たちの罪を贖い、赦しを明らかにしています。この贖罪の慰めを戴いて、町の一人ひとりの方々を覚えて祈る。河内長野教会がそういう教会である時、慰めを分かち合うこの町の社会資源になる第一歩を踏み出すのだと確信します。

カテゴリー

過去の説教