日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年1月25日 説教:森田恭一郎牧師

「執り成しは天の御座から」

イザヤ六六・一~二
エフェソ一・一九~二一

エフェソ書は、今日は、教会を覚えての執り成しの祈りの三番目の所です。これまでの希望、私たちの受け継ぐものの豊かさに続いて、神の力です。また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせて下さるように(エフェソ一・一九)。 この神の力を悟らせて下さいという教会への祈りです。

 

この力を、四つの異なる単語を用いて表現しています。神の「能力」の「実力」の「エネルギー」に従っての信仰者に対する神の「力」。加えて「神の」も二回記されて、言い尽くせない「神の力」を何とか表現しようとしている文章です。

そしてそれ程の力がどこに働いているかというとキリストに働いた。その中身は二つ、キリストの復活と神の右の座に着くことです。人はしかしもしかすると、神の力が現れるのは、大自然の中や、キリストの為さった奇跡に現れると思ったりするかもしれません。確かにキリストの為さる奇跡は神の力が働いているのはその通りなのですが、エフェソ書はこれらのことには全く触れることなく、キリストの復活と神の右の座に着くことのみを記します。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ(エフェソ一・二〇)とある通りです。ここに神様の圧倒的な力が現れている。そのようにしてエフェソ書は私たちに、神の力の働くキリストご自身に、思いを向けさせています。

 

それで、キリストご自身に神の力が働き現れている、その通りなのです。が、正直な所、ここに私たちにとっての課題があります。それは神の力はキリストに現れても、私たちには自分に働いていると感じられないということです。キリストは復活せられた。それ程の力があるのだったら、この世の私たちにも、と思う。

昨日は一月十七日、阪神淡路大震災が起こった日です。多くの人が亡くなられました。そしてご遺族が残されました。後日行われた震災遺児家庭への聞き取り調査の記録、そこに例えばこういう言葉があるそうです。当時短大一年生だった人「家はあっという間に炎に包まれました。家族の声は聞こえていたのに火の勢いがすごすぎて、どうすることも出来ませんでした。ずっと、私一人が助かったことを後悔しました」。あるいは中学校一年生「もし死んでも悔いはないから、死にたかったな。そうしたら、その代わりにお父さんもお母さんも助かったかもしれないのに……ご免なさい」(『心の傷を癒すということ』100分で名著、NHKテキスト二〇二五年)。東日本大震災でも、被災者の方から仮設住宅にお邪魔して伺った言葉ですが「津波が襲ってくる。いつも親しくしているお隣のお婆ちゃんを助けてやれなかった。一分遅れたら自分たち夫婦も助からなかったから。それが負い目としてずっと残っています」。

 

神様が絶大な力を持っておられるなら、その御力をキリストを復活させたと言うなら、自責の念に苦しむこの遺族の子どもたちや被災者の人たちのためにも、亡くなった人たちを復活させて下さればよいのに……。神の力は我々には働いていないように思えてしまいます。もちろん私たちは、人間も終末の時には甦らせられる、と信じ、希望を持っていますが…。

宗教改革者カルヴァンは、エフェソ書註解の中でこう語っています。「死もいまだ力を持っている。希望の下に閉じ込められている我々の至福は、この世からは認められず、聖霊の力は血肉には知られないのである。しかも我々は、他の人々よりも惨めな程に無数の苦しみに服している」。復活という幸いも「希望の下に閉じ込められている」、信仰というものを言い表す面白い言葉です。

カルヴァンは続けて語ります。「それ故、イエス・キリストのみが、我々の内にありながら十字架の弱さの故に何かおぼろであるものを、深く観想せしめ得る唯一の鏡なのである」。こう語ってキリストへと思いを向けさせます。ここに十字架の弱さに言及するのも面白い。この弱さの故に復活さえもおぼろに思える。精神療法に携わる人は言います。社会の雰囲気や周囲の人は「そろそろ立ち直ってもいいだろう」と被災者に思わせてしまう。けれども必要なのは、死別を十分に悲しむ「時間と場所」だ。悲しみを悲しむしかないことと十字架の弱さとが重なる思いが致します。すぐには復活に繋がらない。立ち直り回復していくためには、悲しみを悲しみとして味わい語る、弱さを弱さのまま味わい語ることの出来る「時間と場所」が必要なのでしょう。キリストは十字架の弱さの故に、悲しみを共に味わい、聞き取って下さる。そのように聞いて下さるのは、十字架で聞いて下さいます。十字架にかかられた弱さを知っている主イエスだからこそ、共に味わい聞いて下さる、と言えるでしょう。しかし、主イエスが十字架で死んでしまわれたままなら、味わうことも聞くことも出来ません。十字架の弱さを味わわれた上で死人の内から復活せられたから、生きた方としてキリストは共に味わい聞き取って下さいます。

 

エフェソ書は、神の力が復活と並んで神の右の座に着くことに現れている、と記します。神の右の座に着くというのは、王の座に即位する時の表現です。旧約聖書の 「私の右の座に就くがよい。私はあなたの敵をあなたの足台としよう」(詩編一一〇・一)からの表現です。今日はイザヤ書を読みました。 「天は私の王座、地は我が足台。これらは全て、私の手が造り、これらはす全て、それ故に存在すると、主は言われる」(イザヤ六六・一~)。神殿を建てからと言って誇るな。天が私の王座なのだと創造主としての力を表現しています。そしてイザヤ書は続けてこう語ります。「私が顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、私の言葉におののく人」。神の右の座に就くというのは、そこでキリストがただ偉そうにしているということではない。そうではなくて、その神の右の座から、苦しむ人、霊の砕かれた人、御言葉におののく人を顧みておられるのだ、と言っている訳です。顧みる、別の言い方をすると、執り成す。パウロが語ります。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さるのです(ローマ八・三四)。

 

先ほど、エフェソ書は、復活なさり神の右に着かれたキリストに、私たちの思いを向けさせているとお話ししました。これは私たちからキリストへの信仰の目線です。そしてキリストが私たちを顧み、執り成して下さるのは、キリストから私たちへの眼差しの目線です。もっともこの顧み執り成して下さるキリストの眼差しは、一般には見えず、いわば、私たちの信仰の下に閉じ込められている、信仰者に対してだけ開示されている神の出来事です。

でもこの顧み執り成す中に、悲しみを悲しむ者にとっての、悲しみを共に味わい聞き取って下さる「時と場所」が確かにあります。ここに、私たちからキリストへの信仰の目線と、キリストから私たちへの眼差しの目線の交流が起こっている、と言えるでしょう。この顧み執り成す目線は、確かに天におられるキリストの目線ですが、見下すような「上から目線」ではなく、十字架の弱さの故に私たちの苦しみ悲しみを包み込む目線です。人間の苦しみを苦しみ、悲しみを悲しむその苦しみと悲しさを包む顧み執り成す出来事に、神の右に着かせる絶大な神の力、その力が信じる私たちには現れています。エフェソ書の祈りの言葉は、この慰めの中に私たちを導いてくれます。

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