日本キリスト教団河内長野教会

メニュー

kawachinagano-church, since 1905.

説教集

SERMONS

2025年9月21日 説教:森田恭一郎牧師

「呼ばれ来て、遣われ行く神の道」

出エジプト記三・一~六、一〇、一二

出エジプト記の今日の物語は山から始まります。モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。そしてこの物語は、あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える(出エジプト記三・一、一二)、とありますから、山から始まって山に向かう物語です。そして、山で神に仕えるのですから礼拝です。

その始まりはこうです。そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。モーセは神の御使いが現れたことに気付かなかったようです。神の御使いは神様の啓示、御心が示されるときに登場します。モーセが気を取られて見たのは柴の木が燃えているという出来事でした。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう」。この時、モーセは道をそれて燃える柴の所に向かいます。そこへ向かっているのはモーセ自身です。でもモーセは気付かないでしょうけれど、神様に呼ばれたのです。自分で歩む道からそれて、呼ばれた道を歩み始めます。そしていよいよ、神様の啓示、御心が示されます。主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」。聖句カードを見てみましょう。

神様の御声を聴いたとき、モーセは履き物を脱ぎ跪いています。礼拝の姿勢です。私たちはこの礼拝堂で靴を履いていますが、それでも足を組んで靴を突き出すような姿勢は取りません。最低限、礼拝に相応しい姿、仕草はありますね。そして、神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。聖なる土地、聖なる土地に現れるのは神様です。人が本当に神様を前にしたとき、顔を覆います、自分の罪、赦し、派遣を示されます。
ここでは神様はモーセにすぐ遣わすことを命じます。主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。自分なんかその様なことは出来ませんと尻込みするモーセ。

すると、神様は言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。モーセはこの山から、礼拝の場所から遣わされていくことになります。神様はエジプトの王様の下で苦しみむイスラエルの民の叫びを聞いて、モーセを遣わすことにしました。ここに神様のお心とご計画がありました。その時神様は大きなお約束を下さいました。それは「わたしは必ずあなたと共にいる」。そして、「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」。またこの山、礼拝の場に戻って来ます。

私たちの毎週毎に積み重ねる人生も、礼拝に呼ばれ来て。礼拝から自分の生活へと遣わされ行く。そしてまた礼拝に呼ばれ来て、今、ここにいる訳です。自分の道からそれてやって来た主の道があります。教会の歩む道も同じです。私たちにも、神様の御心とご計画があると信じます。それがあるのとないのとでは人生の意味が全然違います。その御心とご計画を現すべく今日も、私たちをこの礼拝へと呼んで下さいました。そして御心とご計画を携え、お約束を信じ、私たちも神と共にいるというクリスチャンライフを歩みたい。

カテゴリー

過去の説教