詩編 一八・二~四
ヘブライ一一・一~三
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ一一・二)。ヘブライ書が語る信仰の定義です。この聖句から私たちは勇気をもらいます。私たちは望んでいる事柄を確信して良いのだ、私たちは見えない事実を確認して良いのだ。裏切られることはない。そのように私たちを励ましてくれる言葉です。
十章の終わりに、しかし、私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を確保する者です(ヘブライ一〇・三九)とありました。信仰によって命を確保すると言うなら、その信仰とはどういうものなのか、それで「信仰とは」と話が展開する訳です。それが今日の主題でもありますが、先週はこの聖句について触れませんでしたので、この聖句をまず味わいたいと思います。
「信仰によって命を確保する」。他の聖書箇所での用い方を紹介します。例えば、「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」(使徒言行録二〇・二八)。「あなた方は神のものとなった民です」(Ⅰペトロ二・九)。「こうして、私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ一・一四)。お分かりのように、命を確保するのは、神が主イエスを通して、私たちをご自分のものとすることです。あるいは、「神は、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるためにあなた方を招かれたのです」(Ⅱテサロニケ二・一四)。「神は私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」(Ⅰテサロニケ五・九)。キリストの栄光や救いにあずかることが命を確保することになる訳です。
このように見てきますと、確保するのは、キリストのものとなることであり、それも私たちが自分で命を確保するというよりも、キリストが確保して下さることであります。そういう信仰によって確保する訳です。
ところで、皆さんがよくご存じのハイデルベルク信仰問答の第一問は「生きるにしても死ぬにしても、あなたの唯一の慰めは何ですか」。これがあるからあの日、生まれてきて良かった。これがあるから今、生きていて良いのだ。これがあるからこれからも、生きていこう。これがあるから、安心して死ぬことも出来る。そういう慰めは何ですか? その答えは「私が私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることです」。偽物の神様ではなく、本当に愛そのものである真の神様のものとされている。安心ですね。この真の神が私たちの神となって下さった。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。この聖句を味わい、私たちは何を希望し、望み見ているのだろうか。私たちは望んでいるどういう事柄を確信しているのだろうか。私たちは見えないどういう事実を確認しているのだろうか。そしてそのとき、自分がキリストのものであるということだ、と答えるだろうか……。私はここで「そのように答えなければあなたの信仰は失格だ」と言いたいのではありません。私たち自身が何を望もうと、神様が定めていて下さる。ここに信仰の立ち位置がある。御心、御計画に従って私たちがキリストのものである。このことが、私たちにとって一番の慰めにも、救いにも、神に栄光を帰すことにもなるのだ、と。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。前半を直訳しますと、信仰は望まれることの本質。確信は「御子は神の本質の完全な現れであって」(ヘブライ一・三)では本質と訳してあります。望んでいる事柄とは、私たちが望んでいる事柄ではないようです。神様がお望みになっておられる救いの本質です。その本質とは、父なる神様がキリストを私たちの罪を贖う大祭司としてお遣わしになって、私たちをご自分のものとされることです。私たちが神様のものとされている、それは見えない事実です。 信仰は神がお望みになる本質。その信仰とは、私たちの頑張りで確保していくような私たちの信念や信心ではなく、神様がお望みになっておられることそのものです。通常、あなたは何を信じていますかと問われ、私はこう信じています、と自分の信仰と捉えがちな私たちですが、神様のお望みなられた信仰が、私たちの信仰の本質なのですね。仮に自分自身の頑張りが効かなくてひるんでしまっても、それが理由で滅びには至らない。神がお望みになること、私たちはただそれにあずかって、神のものとされている。それが信仰の本質です。 後半の、見えない事実を確認することです。これも直訳しますとちょっと思いつかないニュアンスが出てきます。「信仰は見えない事柄の証明」。神様が成し遂げられた事柄を、他の人がどう思うにしても自分に対しては「こうなのだ」と証明する、論破する、見抜くことです。信仰と言っても、信じる私たちの側よりも神様が成し遂げられ事柄の方に主眼点があります。神様が世界を救う神のご計画は私たちには見えない。そのご計画がキリストに於いて明らかになった。その本質を信仰を以て「十字架は神の救いの出来事だ」と証明する。もちろんこれは自分が証明するのではなく、聖霊が導いて下さる。それが信仰。 主よ、私の力よ、私はあなたを慕う。主は私の岩、砦、逃れ場、私の神、大岩、避けどころ、私の盾、救いの角、砦の塔。ほむべき方、主を私は呼び求め、敵から救われる(詩編一八・二~四)。旧約の信仰者たちの信仰もまた、主なる神に思いを向ける。岩、大岩、砦、逃れ場、救いの角など、信仰の主眼点は救いの根拠である神にあります。
今日は世界宣教の日。河内長野教会もカンバーランド長老教会が遣わす宣教師が礎を据えてくれた教会です。あの時代、よくぞ、世界宣教の夢と幻を神様が備えて下さって日本にプロテスタント教会を設立して下さった。一六世紀のカトリック宣教師によるキリシタンのこと含め、ヨーロッパやアメリカからよくぞ日本まで赴いてくれた、と感謝せずにはおられません。思えば、主イエスは「あなた方は行って、全ての民を私の弟子にしなさい」(マタイ二八・一九)とお命じになりました。パウロも当時の地の果てのイスパニアまで伝道しようと幻を与えられました(ローマ一五・二四)。そして宣教師が世界各地に遣わされるに至りました。そして今は日本人宣教師もいます。
ヘブライ書は続けて、昔の人たちは、この信仰の故に神に認められましたと語ります。昔の人たちとは、旧約の信仰の先達たちを指していますが、旧約時代の信仰者にとってはキリストを遣わす神の救いのご計画は見えない。でも見えない御心を信じました。宣教師も世界伝道の幻を信じました。 今日は世界聖餐日。カトリック教会もプロテスタント教会も「イエスは神の御子、我らのキリスト、救い主である」と信じている点では一致し、だからキリスト教です。それを共通に告白する世界信条、使徒信条やニカイヤ信条やカルケドン信条があるのですが、他の部分には様々な差異があるわけです。特に聖餐理解についてはプロテスタント教会内でも理解の相違があり諸教派に分かれたままです(もっとも、イエスを神の御子と認めないまま聖餐にあずかることはどの教派も認めていません)。それで世界の諸教会の一致を祈り求めて世界聖餐日が定められています。共に聖餐にあずかることは、私たちの側に様々な人種、性別、国籍、そして教派などの違いがあっても、神様が差し出された神様が望まれる救いの本質において、私たちが一つとなる希望を与えます。 終わりに、信仰によって、私たちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから出来たのではないことが分かるのです。見える被造世界が、見えない神の言葉、神の御心によって造られ支えられていることを語っています。ある説教者はこう語ります。「信仰によって世界を見つめ返す時、神の言葉の響きの中で、そのこだまとして、この世界が存在していることが分かる」と。人間の織りなす見える歴史もまた、その中に神の見えない言葉が見えないけれども響いていると信じます。 聖餐もまた同じです。見えるパンと杯、それは見えない御心、キリストの制定のご意思によって支えられている。見える聖餐は見えないキリストの御心と聖霊の導きによって成り立っています。また見えない御心は、聖餐によって見えるものとなっている。もちろん、信仰によって、聖餐の本質部分=見えない御心を味わい望みます。