サムエル記上一八・一~四
フィリピ 三・一七~四・一
待降節第四主日を迎えました。フィリピ書でパウロは記しました。私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています(フィリピ三・二〇)と。私たちは、世の完成の終末に向けて待つ者である訳です。
今日の箇所から信仰者として思いを向けることは、何よりもまず、私たちの本国が天にあるということです。そして天に在っては、キリストは万物を支配下に置くことさえ出来る力によって私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えて下さる(フィリピ三・二一)。希望です。それまでの間の地上にあってはだから、主によってしっかり立ちなさい(フィリピ四・一)ということです。待つ間、如何にしっかり立つのか、今日は、この待つ期間、私たちの心得るべきことに思いを向けたいと思います。
待つ、というのは、ただボーッとして待っていれば良いというのではありません。前々回、エフェソ書から、私たちは補い合って、組み合わされ結び合わされて体=共同体を建て上げて行く過程を歩む、そして最終目標地点はキリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長していくのだ(エフェソ四・一三~)と教えられました。私たちは皆、欠けがあって補われることを必要とする存在です。
先日の祈祷会で、毒麦の譬え話(マタイ一三・二四~)を味わいました。麦畑に毒麦が生えてくる。僕たちが「行って抜き集めておきましょうか」と提案すると、主人は言いました。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかも知れない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。両方とも育つままに。これは待つ訳です。麦を一緒に抜かないように大切にする姿勢が際立ちます。またすぐ抜いてしまわないで毒麦を大切にしているとも言えます。また、麦を良い麦とも言わない所が味わいがあります。良い麦と悪い麦の対比ではない。一人の中に良い部分も悪い部分もある。むしろ、自分は良い麦だと思っている自分が一番悪い麦かも、と感想を語って下さった方もおられました。
刈り入れの終末までの間、毒麦と育つ、一緒に歩む。忍耐を要します。でも言葉を換えれば寛容です。多様性を受け入れることだと言えなくもありません。毒麦は最後、焼かれてしまいますが、それをキリストが十字架で負って下さったのです。
フィリピ書でもパウロは自分のことについて、既に完全な者となっている訳でもない(フィリピ三・一二)と語りました。
また、他者についても、十字架に敵対して歩んでいる者が多い(フィリピ三・一八)と語ります。この敵対する者とは、キリスト教会の外にいるユダヤ人たちやローマ人などのことをまずは指しているでしょう。敵対するというのは、いわゆる悪いことをしてしまう仕方で敵対する場合もありますが、逆に、自分には十字架などなくても立派にやって行けると思い上がるという仕方で敵対する姿もあります。
これらの敵対する姿はしかし、私たち自身もまた例外ではありません。時に信仰を失いかけたり信仰から外れたりして、日々の営みにおいて瞬間、瞬間、十字架に敵対してしまうことはあり得ることです。パウロは、そのような人たちに対して、お前のような者は失格だと見下げているのではありません。十字架に敵対する者に対して、今また涙ながらに言いますが(フィリピ三・一八)と、涙を流して相手のことを思い、悲しんでいる訳です。
キリストもまた、あるとき「安息日に律法で許されているのは善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問いつつ、答えようとしないで黙っている人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ三・五)、癒しの御業を為さったことがありました。
こういう自分と、またこういう相手と共に生き、共同体を建て上げていく。それが私たちの、また教会の待つ営みです。この共同体が、忍耐、ただ我慢というのではなく、希望を以て忍耐する。それ故に寛容な心で相手の成長を待つ。
そこには涙があります。気持ちの戦いもある。その上で、ここでヨハネ黙示録の聖句も思い起こしましょう。見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる(黙示録二一・三~)。
フィリピ書でパウロは言いました。主イエス・キリストが救い主として来られる、と。十字架で私たちの罪を、毒を、贖い取って下さいました。キリストは弟子たちにこう仰いました。私はあなた方を友と呼ぶ(ヨハネ一五・一五)。友、それは、ダビデとヨナタンのように自分の魂が相手の魂に結びつく(サムエル記上一八・一)ほどの友情を意味することもあります。でも、主イエスが友と呼んで下さるのは、弟子たちが殊更に良い麦であった訳ではない。彼らはその後、主イエスを裏切る敵対者、毒麦であった。でも主イエスは友と呼び、友として悔い改め成長していくことを願われた。
教会に集う私たちは、キリストが救い主として来られる方であり、キリストからこの愛を戴いていると知る者です。ここにしっかり立つことが必要です。ここにしっかり立って、お互いをキリストにある友情の下に見出すことが出来る訳です。そのように補いつつ、キリストの豊かさに満たされる所に向かって待つ。それが出来るお互い同士、この共同体は安心していることが出来る共同体であると言えるでしょう。