イザヤ五三・一一
マタイ二七・四五~五六
キリスト教の核心部分は、神の御子の受肉、十字架、復活です。その内の今日の使徒信条は「十字架につけられ」の箇所です。 主イエスは亡くなられたのですが、ただ死なれたのではなくて十字架につけられて亡くなられた。その意味は何であったのか。他の亡くなり方、例えば老衰で、あるいは病死では駄目だったのか。 十字架上で主イエスは叫んでこう言われました。 「わが神、わが神、何故私をお見捨てになったのですか」(マタイ二七・四六)。詩編の記者は、主よ、私を見捨てないで下さい(詩編三八・二二)と祈りましたが、主イエスの場合はそれは叶わず、見捨てられて亡くなられた。旧約の別の表現で言いますと、木にかけられた者は、神に呪われた者(申命記二一・二三)です。主イエスは神に呪われた者として亡くなられました。神に見捨てられ呪われる、これが罪の裁きとしての死です。 でも……、そのお蔭で、私たちは最早、呪われて見捨てられることはない。死ぬ時だけではありません。私たちは生きている間も、呪われた人生でも見捨てられた人生でもないと確信することが出来る。仮に、散々な人生だったと思えたとしても、それは神様から見捨てられ呪われたから辛い人生になったということではないと確信できる。
私たちキリスト教徒にとって十字架は、こういう恵みの十字架なのですが、十字架につけられたキリストというのは、ユダヤ人には躓かせるもの、異邦人には愚かなものです(Ⅰコリント一・二三)。ユダヤ人にとって木にかけられ呪われた者を救い主メシア=キリストと信じるなんて躓きでした。ギリシャ人にとっては、死ぬはずのない神様がまして十字架で死ぬなんて愚かな知恵、考えに思えました。どちらにとっても、そんな救い主、そんな神様は救う力のない弱々しい救い主、神様でしかなかった。それに対してパウロは、ユダヤ人であろうがギリシャ人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからですと語って、彼らの常識的な考えに振り回されることはありませんでした。 それなら私たちはどうなのか。キリスト教の核心部分、十字架のキリストを神の御子と信じられるか否か、ユダヤ人でもなくギリシャ人でもない日本人はどうなのか、現代の私たちはどうなのか。 イエスという一人の人が十字架で死んだ。これは誰もが認める歴史の出来事です。その十字架を、十字架の意味を、神の御子が呪いを負って下さった出来事、あるいは罪を贖って下さった出来事と理解し告白出来るのか。現代人には難しくなっています。イエスは人類の単なる理想的な模範者に成り下がっている。イエスが成り下がっているのではありません。イエスを単なる模範者に成り下げている訳です。素晴らしい教えを語り、病の人を癒し、十字架にまでかかる程に愛の人になって下さった、そういう理想の模範者にしてしまっていることが多い。そのような模範者なら、キリストでなくてもお釈迦様でも誰でも良いことになります。模範者では十字架に罪の贖い、救いの意味は出てこない。 その点、百人隊長は 「本当にこの人は神の子だった」(マタイ二七・五七、マルコ一五・三九) と言いました。マルコ福音書では百人隊長は十字架につけられたイエスの方を向いて、躓きもせず愚かだと馬鹿にもせず、素直に告白しました。よく告白出来たと思います。何か、意味を感じ取ったのです。マルコ福音書に比べてマタイ福音書は復活の後(マタイ二七・五三)とありますから、十字架で主イエスが引き取られた時点ではなく、復活の後の時点になって十字架のキリストを思い返して、告白している文面になっているようです。いずれにしても十字架の前に立ち、十字架につけられたイエスの意味を「神の子」と言い表した訳です。 使徒信条は、イエスは神の独り子、十字架につけられたキリストを告白している訳です。であるのに、私ごとになりますが私が二〇歳を過ぎた頃、こんなことを言った事があります。神様が崇められることが大事だから、神様に栄光が帰せられるなら、自分自身はどうなってもいいのではないか。そう、格好づけて言ったんですね。この言い方、考え方、何が問題ですか。これを話したら、福音派の友人から問いかけられ批判されました。自分自身が救われないでは福音を信じたことにならないのではないか。自分自身が救われないで、神に栄光を帰する事が出来るのか。言われてみて、そうか、頭でっかちな考えだけの思いだったな、と気付かされました。
使徒信条を告白するというのは、キリストはこの私のために十字架にかかって下さったのだと告白することです。だから自分はもう、見捨てられることもなく呪われることもなく、救われるのだと信じること、告白することが出来るということです。自分のことをそう告白出来てこそ、神に栄光を帰すことが出来るし、キリストを宣べ伝えることも出来る。またこの慰めを以て相互牧会も出来る訳です。 キリストを証する苦難の僕の詩にこうあります。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。私の僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った(イザヤ五三・一一)。ここで苦しみの実りと言うのは人間のことです。少なくとも十字架の意味を受けとめて、十字架のキリストのお蔭で自分は救われていると告白する信仰者の事です。キリストが私たちのことを苦しみの実りとして満足なさった、喜んでおられる。苦難の僕=キリストのこの喜びを受けとめるなら、自分はどうなってもいいのではないかと言ってはいけないし、自分なんて立派な人間ではないから自分が救われるかどうか分からないなどと思ってもいけない。 もちろん、自分のことを立派な人間だなんて自分を誇るのは信仰者として相応しくありません。が、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント一・三一)、これをためらってはいけません。キリストが十字架にまでかかって私たちを苦しみの実りと見て満足しておられるのに、そういう自分を、救われるかどうか分からない自分に見下げてはいけません。確信を以て、はっきりと自分の救いを告白すべきことが分かります。