日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2025年1月5日 説教:森田恭一郎牧師

「助けは来る、主のもとから」

詩編一二一・一~八
ヨハネ一五・五

目を上げて、私は山々を仰ぐ。私の助けはどこから来るのか。私の助けは来る。天地を造られた主のもとから(詩編一二一・一~二)。二〇二五年を迎えました。明けましておめでとうごございます。目を上げ天を仰いで、主の御名をあがめ、御国を待ち望み、地上に御心の成ることを祈りつつ歩む一年となりますように。皆様に御言葉と共に主の祝福をお祈りいたします。

 

この詩編はまず、都に上る歌と記します。エルサレム神殿に向かう巡礼の歌です。巡礼者が仰ぐ山々とは、エルサレム神殿のある山やその周囲の山々です。エルサレムに近づくと感慨ひとしおです。(丁度、旅先から河内長野に近づくと、金剛山や葛城山が近づいてくる、あのイメージに近いでしょうか)。 その山々を仰ぎますが、もちろん山々を拝んでいるのではありません。その山々を造られた創造主を仰ぎます。それで、その主に問いかけます。私の助けはどこから来るのか。そして私の助けは来る、天地を造られた主のもとからと力強く信仰の告白に思い至らせています。

 

三節以下、あなたをと巡礼者に呼びかける祭司の言葉のようです。そして見守るという言葉が五回出てきます。一二一編からイメージするのは、巡礼の旅に重ねての人生という旅でもあります。その旅路に疲れ切って足がよろめき、まどろむ時、主は見守って下さいます。昼の強烈な太陽の光、(私たち日本人には実感が伴いにくいのですが)夜の月の光も疲れ切った旅にあってはなかなかきつく感じられたようです。その時の主は、あなたを覆う陰となって見守って下さる。全ての災いを遠ざけ、出で立つのも帰るのも、旅でもあり日常でもある人生の日々の営みを見守って下さる。

今日、一二一編から分かち合いたいことがあります。それはこの信仰の確信、信仰の告白は、巡礼において思い起こされるということです。もし、巡礼することなく神殿に向かうことなく、神の御前に立つことがないとしたら、その人生は、私の助けはどこから来るのか、と主に向かって問いかけることもなく、ましてや、私の助けは来る。天地を造られた主のもとから、という信仰の告白も起こらない。巡礼において主に向かって問いかける思いが引き起こされます。これを問いかける事が出来ること自体が、信仰者の幸いです。多くの日本人はそれが出来ないように思います。困難や、病床の命の終わりを迎えようとする時でさえも、神に向かうことを知らないでいる。まして、見守られている希望には思い至ることが出来ない。それは、更に思い広げると、親しい者を失って葬儀の時には宗教的になることが多いですが、私の助けは来る。天地を造られた主のもとから、と主の前にぬかづく時になるのだろうか。少しでもそうなれば良いのにと思います。初詣もまた同じです。

私たちは、いわゆる巡礼はしませんが、毎週の主日礼拝に集い、今日もこの礼拝に集ったということ、それが私たちの巡礼であり、生きる上で問うべき問と、応答すべき告白をもたらしています。主イエスも言われました。私に繋がっていなさい(ヨハネ一五・四~)と。礼拝毎に主イエスに問いかけを持ち、信仰の告白を思い起こさせて下さいます。それは葬儀の時も含めて、私たちの信仰の日常生活を支えています。日常生活が巡礼の旅であり教会生活になる、と言えるでしょう。

私たちは 毎週礼拝をささげます。礼拝から始まるから、救いは主のもとからと確信する。礼拝に向かうから救いはどこから、と主に向かって問いかけることが出来る。日常の生活の中で主の見守りを受けていることを信じることが出来る。私たちは、二〇二五年、礼拝からを始まり礼拝に向かう毎週の主の御前における日常生活を歩みます。

今日は「能登半島地震一年を覚えて」の祈りに心を合わせる集会とします、と先日の週報に記しました。丁度一年前の午後四時過ぎ、地震が起こり大きな被害をもたらしました。この度、中部教区議長より、全国の諸教会に向けて一緒に祈りに覚えて欲しい、と祈りのしおりを戴きました。今日の聖書個所は、この祈りのしおりに記された箇所です。御言葉に導かれて祈ることへの呼びかけを大事にしたいと思います。この後、この祈りのしおりにも記された祈りの言葉を以て祈りながら、被災地の諸教会と皆様にも主の見守りが注がれていることを確信して、新年の営みを始めます。

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