イザヤ 一・一一
ヘブライ九・二六b~二八
ヘブライ一三・一四~一六
今日はまず主キリストの「犠牲」のことを語ります。『A・D・ヘールに学ぶ』にはヘール宣教師自身の説教が載っています(二二六頁~)が、その終わりの所で神の国の建てられる土台が何であるかについてこう語っています。それは力のある者、強い者が力の無い弱い者を助けるために、その強い力を用いることであります。此の世は力の強い者は、その力を弱い者を虐(しいた)げる為に用い、己が欲するままの事として、世を苦しめますが、神の国での行き方はこれと正反対であります。犠牲ということは、神の国を建てる最も必要な欠くことの出来ない条件でございます。神の国での行き方は犠牲である、というのです。
犠牲、教会の信仰告白の言葉で言いますと「御子は我ら罪人の救いのために人と成り、十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神に献げ、我らの贖いとなりたまえり」。犠牲を「いけにえ」と発音しています。
今日の聖書ではひらがなで「いけにえ」と記しています。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自分をいけにえとして献げて、罪を取り去るために、現れて下さいました(ヘブライ九・二六b)。完了形で「現れて下さいました」というのは、クリスマスから十字架、復活を経て天に挙げられるまでの、今から二千年前の地上のご生涯のことを言っています。キリストは御自身を十字架に全きいけにえとしてお献げになられたのですから、私たちの罪を担うことによって私たちから罪を取り去る贖いの御業を、一度限りで完成して下さいました。世の終わりにとありますが、終わり=目標=完成という意味合いがあります。贖いの御業が完成するのですから、その時点で世の終わりなのです。私たちの実際の姿が、どれ程罪深いとしても、キリストの側から見ると、完璧ないけにえなので、全ての取り除いて下さった、そう信じなければなりません。 それで念を押すようにして、逆の視点から語ります。主キリストがいけにえになられなかったどうなるか、その人間のあり方を記します。私たち人間はただ一度死ぬこと、その後に裁きを受けることが定まっている(同九・二七)。そこに主キリストが現れて下さって、そのように、この人間のあり方に合わせるようにして主キリストも多くの人の罪を負うために唯一度、身を献げられた。すなわち、死んで裁きを身に負って下さった。これを十字架の出来事から信じて良いのだ、と念を押すようにして信ずべきことを確認します。私たちの死は、裁きではなく救いへの入口になります。
現れるという言葉がもう一度。二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れて下さるのです(同九・二八)。今度は未来形です。キリストのいけにえの結果は救いです。
完了形の「現れて下さった」 二千年前の時点と、未来形の「現れて下さる」の間が中間時という今の時です。中間時は、キリストの御業は完成しているけれども、私たち自身は未完成のままの時間です。未完成の私たち、私たちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです(ヘブライ一三・一四)。私たちが、主の祈りで、御国を来たらせ給えと祈る通りです。
私たちは完成していません。弱さを抱え、罪を犯し、なかなか謝ることが出来ない。逆に罪を犯した者を赦すことが出来ない。自分も相手も同じです。それで、どうせ私たちは完全になることは出来ないから仕様が無いと開き直りたくもなりますが、そういうことではなく、中間時に心得る行き方、生き方をヘブライ書は、私たちもいけにえを献げることだと記します。
二つあります。まず、だからイエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう(同一五)。神への礼拝をささげることですね。主キリストが罪を完全に贖い取って下さった救いを確認し、賛美をささげます。二つ目は、善い行いと施しとを忘れないで下さい(同一六節)。隣人愛のことだとも言えます。ここで特に「施し」と言うと、富める者が貧しい者に憐れんで施す、というようなニュアンスで理解しがちですが、この用語は「コイノニア=交わり」です。交わりはただ仲良くということに留まらず、罪を抱え信仰が弱ってしまった相手の人と信仰の交わりを持つことです。礼拝で戴いた恵みと慰めと生きる勇気を分かち合う交わりです。私たちは皆、未完成ですから恵みをもって補い合います。
先週、第四回教会創立記念講演会の和田栄氏の講演を引用しました。今日も一箇所思い起こします。教育基本法が改正されて家庭教育についての文言が入った。教育の一番の責任は家庭である。こういう文章が加わったのは、今の日本社会が家庭教育の責任を受け入れないような社会になってきていることの反映です。経済協力開発機構OECDで毎年ある調査をしている。「あなたは自分の子どものために犠牲にありますか」。七三カ国の内、平均七割強の人たちが「犠牲になります」と答えるが日本は三割いかない。今は少し増えたかも。日本人家庭の保護者の意識がその様なことなら日本はどうなるんだ、大変だ、ということで教育の一番の責任は家庭であると付け加えられた。ただそれを上から命令しても意味ないので、例えばコミュニティスクールに学校の人、地域の人、家庭の保護者が入っていろいろ気付き、考える。それから生涯教育。例えばこの教会の歴史の中で皆さん方も皆さんに与えられている使命、役割、それが梦ということですが、一杯持っているでしょう。宗教教育、心の教育は学校では難しい。そう講演されて教会への期待を語られました。
ヘール宣教師の言葉に戻るなら、神の国を建てることです。自らをいけにえとして献げられたキリストに繋がり、また、犠牲を以てお互い同士が繋がる社会。人間が神の国を完成させることは出来ません。でも神の国を目指しながら、社会生活を構築して行く。教会はそれを証しすることが出来る、と期待されている訳です。