日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2021年6月13日 説教:森田恭一郎牧師

「元気になるよ、安息日」

出エジプト 二三・一二
マルコ 三・一~六

安息日、それは私たちが元気になる日です。旧約聖書にも、あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである(出エジプト記二三・一二)とあります。六日の間仕事したら疲れてしまいます。それで七日目は休みます。勉強し過ぎたら頭だって疲れます。休んで頭も体も元気にします。それで元気になれるようにと、安息日には仕事はしないという決まりが出来ました。それでは、心が元気になるためには何が大事でしょう。それは礼拝で神様の恵みを頂いて、神様に向かって「有難う、ハレルヤ=神様をほめたたえよ」と心から言えるようになると、心は元気になります。

 

ある安息日の事、安息日なのに、体も心も疲れが取れず元気のない人がいました。手の萎えた人です。今まで、どれだけ手を真っすぐに伸ばそうとやってみたことか。でも、何度やっても、手も腕も全く動きません。良くなりたい気持ちもいつしか失せてしまっていました。これではこの日も最初から「神さま有難う、ハレルヤ」と言える気持ちにはなりません。身体も心も元気ではありません。

イエス様が会堂にお入りになると、手の萎えた元気のない人に気が付きました。その萎えた手も治してあげよう。この人のために善い事を行おう。命を救ってあげよう。体も心も元気にしよう。「神様有難う、ハレルヤ」と言えるようにしよう。それでイエス様は、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われた(マルコ三・三)。さあ、治してあげよう。イエス様のこのお気持ちは、手の萎えた人に伝わりました。それで手の萎えた人は、会堂の端から真ん中へ、イエス様の真ん前に立ちました。

 

ところがです。他の人たちの気持ち、手を治してもらえるなんて良かったね、「神様有難う、ハレルヤ」って一緒に賛美できるねと喜ぶ気持ちがイエス様の所に全然伝わって来ません。伝わってこないどころか反対に「萎えた手を元通りに治すのは医者が六日の間に行う仕事だ。それを安息日にしてしまうなんて、それは律法の規則違反ですよ」。何だか、イエス様が悪い者扱いにされています。更に終わりの所では、ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。マルコ福音書は全部で一六章。その第三章の所でもう殺す相談が始まっている。何てことでしょう。

 

イエス様は問いかけます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」。答えは、はっきりしています。善を行う方が良い、命を救う事の方が良いに決まっている。それなのに! 彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し(マルコ三・四~)ました。当然ですね。それで「お前たちは何故、この人の救いを喜ばないのか」ともっと人々を責め立てるのかと思いきや、それ以上のことはしませんでした。

 

どうしたかと言うと、彼らの頑な心を悲しみました。みんなが元気になるはずの喜びの安息日に主イエスは悲しまれました。そして、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。安息日だからこそ、あなたのその病と、みんなの頑な心を私が背負おう。そうやって、神様の善い業、命を救う救いの出来事を実現させよう。手の萎えたあなたも、そしてみんなも「神様有難う、ハレルヤ」と言える安息日にしよう。

伸ばすと、手は元通りになった(マルコ三・五)。今まですっかり諦めていたのに、今日、イエス様の前では「よし、伸ばしてみよう」という気持ちになりました。それは、自分の気持ちよりも前に、イエス様のお気持ち、ご決意がビンビンと迫って来たからです。その萎えた手も治してあげよう。この人のために善を行おう。この人の命を救ってあげよう。主イエスの愛の迫りの中で彼は心が元気になり、それで手を伸ばし治りました。安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子は安息日の主でもある(マルコ二・二七)。彼はこの安息日に、主イエスに礼拝をささげ「有難うございます。ハレルヤ」と賛美出来るようになりました。

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