創世記一五・五~六
ガラテヤ三・一~六
今日の説教題に「信仰の原体験」という言葉を用いました。これは私たち人間の側の信仰の原体験ということです。自分の原体験と言えば、人、夫々にある体験であると言えますが、信仰の原体験となれば、結局はある一つの体験に収斂されていくと言えると思います。その内容は、キリストによって義とされる(ガラテヤ二・一七)ということです。この信仰体験をガラテヤ書は更にこうも表現しています。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示された (ガラテヤ三・一)。皆さん、この自分のために十字架につけられたイエス・キリストのお姿を思い浮かべて見て下さい。目をつぶって……。
今、思い浮かべて描き出された、あなたのための十字架のキリストのお姿が、私たちの信仰の原体験です。パウロはこれを〝霊〟を受けた (ガラテヤ三・二) と言い換えています。〝霊〟を受けたという、この聖霊体験は、福音を聞いて信じたからという礼拝での御言葉の体験なのですね。真空状態で生じる何かというのではなく、礼拝での御言葉の体験です。御言葉を聞いて、十字架のキリストのお姿がはっきりと示される体験。これらの信仰の原体験のことを、あれ程のことを体験した (ガラテヤ三・四)と言っています。 この体験は神様の側から言えば、〝霊〟を授け、奇跡を行われる(ガラテヤ三・五)ことによって起こる体験ということになります。ですから信仰の原体験とは、自分の主観的な体験に留まらない、神様の側に根拠を持つ客観的な信仰体験です。
因みに、洗礼を受けるのは、この信仰の原体験もしくはその気付きがあるからだ、と言えます。洗礼を受けようと思うきっかけは色々あると思います。教会に来ると皆さんが温かく迎えてくれるから、イエス様の生き方から自分の理想とする生きる姿勢が見えてきたから、神様がおられると思えるようなったから等々、色々あると思います。そしてそれらのことを経ながら、洗礼を受ける根底には、「自分のために」十字架につけられたキリストのお姿がはっきりと、目の前に示された、この信仰の原体験もしくはその気付きが必要です。私のために身を献げられた神の子に対する信仰(ガラテヤ二・二〇)とパウロは語っています。
これを聞いて、この原体験があると言える人は幸いです。でも自分には信仰のそのような熱い原体験はないと思われるとしても、それはそれでもっともです。ダマスコ途上の経験をしたパウロはそうかも知れないが、私はそうではないと。だからこそ、既に洗礼を受けたガラテヤ教会の人たちの中にも、それが曖昧で、恵みが分からなくなった人たちがいた訳です。
そこで、今日の箇所から教えられることは、十字架のキリストのお姿に気付いていることは大切であるということです。「気付き」と敢えて言いますのは、そこに気付けばキリストの十字架が「私のためだ」と確信するまでの道は備えられたと言えるからです。毎週の説教を繰り返し聞きながら、十字架のキリストに思いが及ばないとすれば、次の週から十字架のキリストに焦点を当てて聞き直してみる。十字架のキリストに気付く。そうなれば、〝霊〟が授けられ奇跡が起こり始めていると言えるのではないでしょうか。そして気付きから、私のためにキリストは十字架について下さった、といつしか頷くことが出来るようになる。キリストと自分の関係=絆が結ばれている。こうなれば、洗礼を拒む理由は最早、何もないと言えるでしょう。仮に「自分のために」ということがまだ曖昧でも、説教から十字架のキリストに気付くだけでも、日本文化の中にあっては大きな前進です。聖霊の導きなしには起こらないことだからです。
説教を通して福音を聞いて気付く。それは、例えば十字架のキリストを描いた美術品を観て気付くのとは質的な違いがあります。説教を通して気付くのは、説教を聞き続けることによって、信じることへと促され方向づけられるからです。信じること、従うことへと心が揺さぶられていく気付きになります。やはり礼拝こそが聖霊の働く場所です。礼拝こそ聖霊の働きを受け入れる一番の場所です。信じる奇跡が起こる場所です。
以上申し上げましたことは、未受洗の求道者の方々にだけ当てはまることではありません。パウロが問いかけています。あれ程のことを体験したのは、無駄だったのですか。繰り返しになりますがこれは既に洗礼を受けた信仰者たちへの問いかけです。ここで体験と訳されています。口語訳では「あれほどの大きな経験」と訳出しています。体験と経験、この使い分けは、使う人の使い方、その人の定義によります。区別をつけない定義の仕方もあると思います。私自身はこう定義づけています。体験がその人にとって意味あるものと自覚されたときに経験となる。私たちは、日々、無数の体験をしながら生きています。その中で、記憶に残るような体験が経験になる。特に、意義あるものとして意識化されたものはより深い経験になるでしょう。あくまで私の定義です。
ガラテヤ書の聖句でいえば、体験したことが意義あるものとして自覚されないと「無駄」になっていきます。逆に、体験したことが本人にとって「あれ程のこと」として自覚すると、その体験は経験になる。追体験という言葉があります。それは相手の経験に何か大切な意味がありそうだと気付く体験です。それが自分にとって意義あることとして意識されると、相手の経験が自分の経験になっていく訳です。
十字架のキリストの追体験が出来るとすれば、十字架で罪を贖う神の御業としてキリストが担われた経験に気付いて、それを自分にとって意義あることだ、この私のための十字架なのだと意識したとき、十字架のキリストのキリスト御自身の経験が、私のための意義ある私の経験になっていく。
ガラテヤ書の前半は、人間が救われる=義とされるのは、キリストの恵みで十分なのか、それとも人間による律法の行いも必要なのかを主題にしています。今日の箇所ではそれを少し言い換えて、神様が奇跡を行い私たちに〝霊〟を授けて、義として下さったのは、神の恵みを告げる福音を聞いて信じたからなのか、それとも私たちが律法を行ったからなのか、と問いかけます。その際に旧約聖書のアブラハムを引用します。
アブラハムは、子孫を授かる約束を神様から受けていました。でも夫婦ともに年を重ねて、もう無理だと神様を信じられなくなりました。そのような時に、神様はアブラハムを外に連れ出し星空を仰がせます。満天の星空です。今日の私たちは、空気汚染でそのような星空をアブラハムのように体験することはもう出来ません。そんな現代人でも海外の空気の澄んだ場所から夜空を見上げれば、自然世界の感動を多少は経験することでしょう。
しかしアブラハムにとって満天の星空を仰ぐことは日常の体験です。そしてそこに神様の語りかけが起こります。 「天を仰いで、星を数えることが出来るなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(創世記一五・五)。この時、満天の星空を仰ぐ日常の体験は、特別な意義のある経験となりました。単なる自然世界の感動の経験ではありません。神様の語りかけのもとに「あれ程の」と言えるような特別な信仰的意義のある信仰の経験となりました。満天の星空と神の御言葉が結びついて、その時、アブラハムは主を信じたのでした。それはアブラハムが律法を与えられる以前の話です。満天の星空を仰ぐ体験が無駄にならず、御言葉と共に経験となって、改めて主を信じるに至りました。無条件に、神様はアブラハムを義とお認めになりました。
私たちにとっても、十字架のキリストと、その意義を語る御言葉が結びつくと、それは、目の前に示される信仰の原体験、いや今の自分を繰り返し生かす信仰の経験になります。条件なしに信じて、私たちは信仰者として生きる者となります。