創世記15章6節
テサロニケの信徒への手紙一4章13節~14節
今日の聖書箇所でパウロは言います。「イエスが死んで復活されたと、私たちは信じています」。パウロたちは信じているんです。そこで今日の説教題をこのようにしました。
聞いて下さい。「信じれ、信じる、信じた」。
聞いていて、あれっ、何か変だな、って思いませんか?
そう、信じれ、というのはおかしい。「信じなさい、信じろ」というのが正しい。「信じる」の命令形は信じれではなくて「信じろ」です。でも、日本語って面白い。不思議なんですよ。
何かというと「見る」の見なさいは短く言うと? 「見ろ」です。
では 「聞く」の聞きなさいは短く言うと? 「聞け」です。
「話す」の話しなさいは短く言うと? 「話せ」です。
何故、「見れ」と言わず見ろなのか、「聞こ」と言わず聞けなのか。何故、「話そ」と言わずに話せなのか?
まだある「食べる」の食べなさいは? 「食べろ」です。
では 「飲む」の飲みなさいは? 「飲め」です。
「味わう」の味わいなさいは? 「味わえ」です。
何故、「食べれ」でなく食べろなのか、何故「飲も」ではなく飲め、何故、「味わお」ではなく味わえなのか?
国語の先生でもなければ、みんな説明できない。
でもみんな説明は出来なくても、ちゃんと使い分けて使っているね。
説明できないから、どっちを使えばいいのか分かりませんなんていうことはない。「信じれ」なんていう人はいません。「信じろ」と、正しく使い分けてちゃんと言います。
それで、今日の説教題、「信じれ」です。間違っています。これはミスプリントではない。でも敢えて、わざとこういう題にしたんです。
どうしてかというと、私の高校時代の数学の先生、小学校で言えば算数でうね。その先生が、生徒の私たちに授業中に時々こう仰る。
「解れ、解る、解った!」。ここでは「解れ」というのあっている。間違っていない。「解ろ」とは言わない。「解れ」でいい。だけれども、今回説教の準備をしながら何故か「解れ、解る、解った」を思い出した。それでハッと思い至った。これは、先生が一生懸命説明して下さっても、ちっとも解ってくれない頭の悪い生徒たちを前にして、祈るような気持ちで仰った言葉なんだ、神さま、この頭の悪いこいつらが解りますように。何とか解ってくれ、という叫ぶような気持ちが「解れ」という言葉になり、それは祈りの言葉になったった。何十年も経って、そう気が付きました。
それで今日はね、私は皆さんに信じて欲しいのです。イエス様のこと、主イエスが死んで復活されたことを、信じて欲しい。パウロたちはは「私たちは信じています」と告白します。だから皆さんに「信じなさい、信じろ」なんです。でもこれは上からただ命令するのではない。是非信じてもらいたい、何とか信じてくれ。この祈りの言葉、それが「信じれ」になります。
旧約聖書にアブラムさんのお話があります。後にアブラハムさんに名前が変わります。ある夜のこと、神様がアブラムさんを外に連れ出して、星空を見上げさせます。見ると空一杯の星、また星、数えきれないほどの満天の星空です。そうしたら神様が「あなたの子孫はこのようになる」と仰いました。もう年取ったアブラム夫妻に、数え切れない程に、子どもたちが与えられる。そう神様が約束下さいます。普通に考えたらとても信じられることではありません。でも創世記15章6節、「アブラムは主を信じた」。そして神様もそれをとても喜ばれて「主はそれを彼の義と認められた」。アブラムから始まって主を信じる子孫は、今や世界中に広がって、私たちもアブラハムの子孫です。
私たちはアブラハムが信じた主と同じ主、神様を信じます。そして十字架につけられて死んで三日目に甦ってこられた復活の主イエス・キリストを信じます。
皆さんはでも、死んだイエス様が甦って来たなんて信じるなんて出来るもんかって思う人もいるかもしれない。無理やり思い込むんですかと納得できないと思う人もいるかもしれない。
でもパウロたちははっきりと告白するんです。「イエスは死んで復活されたと、私たちは信じています」って。なぜこう告白出来るのか。お弟子さんたち、使徒たちは本当に甦って来られた主イエスに出会ってしまったからです。それで信じたんです。実際に出会ったのですから、思い込みではありません。でも最初は「うそーっ」と思ったと思います。本当ー?って。何か勘違いしているのかな?とか、誰か似た人がいるだけじゃないの?とか、これは亡霊か幽霊じゃないの?とか、何とか説明付けようと思ったかもしれない。
でも弟子たちもパウロたちは説明は出来なかった。でもそ説明できなかったから疑って信じなかったのではなくて、信じたんです。しかも思い込みではない。弟子たちは目の前に主イエスを見てしまったから。パウロはお姿は見なかったけれども、御声は聞いてしまったからです。それで主イエスのお姿、お声を信じ、甦りの主イエスを信じた。この、甦りの主イエスお姿に出会い、御声を聞いた使徒たちの信仰を受け継いでいるのが教会です。
そこで皆さん、今日の終わりに皆さんにして欲しいことがあります。「信じれ、信じる、信じた」。これは先生の皆さんを想っての祈りの言葉です。教会の私たちが、思い込みではなくてちゃんと甦られた主イエスを信じている所から来る、皆さんを想っての祈りの言葉です。それを今度は皆さんの側から答えて欲しいのです。応答してみてもらいたいのです。どのようにかというと…このようにです。「まず信じてみよう。それで信じてみた。そうしたら信じられた」。まず信じてみよう。あの満天の星空のもと語り掛けて下さった神様をアブラムが信じたように。復活の主イエスに出会った弟子たちや、そのお声を聴いたパウロが主イエスを信じたように。皆さんも、まず信じてみよう。それで信じてみる。そうしたら皆さんも教会に繋がる中で、信じられるようになります。皆さんも「主イエスが死んで復活されたと、私たちも、信じています」と告白できるようになります。