イザヤ書44章6~8節
ヨハネ黙示録1章1~8節
今日は教会の暦で言いますと、終末主日です。終末というと、何か審かれて罰せられるとか、滅亡とか、滅びといった怖いイメージを持たれる方もおられるかもしれませんが、丁寧に考え直すべきであります。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」すなわち救い主イエス・キリストがが再びおいでになる再臨の時であり、救いの完成の時です。
終わりというのは、目標とも訳せる言葉で、滅んで終わるという事ではなくて、マラソンで言えば、42.195kmを走り終えてゴールインする、目標に達するということです。そして神様の目標は救いの完成です。そして救いの完成ですから、それを妨げる不信仰は裁かれて、信仰へと至らされるでありましょう。
ですから、やがて来られる方、来たりつつある方を前に、自分の不信仰を悔い改めるべきでありましょう。不信仰というのはもちろん神を信じないことですが、イザヤ書40章27節(p.1125)をご覧下さい。「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、私の道は主に隠されている、と、私の裁きは神に忘れられた、と」。私の人生は神さまから見て隠れてしまって見えなくなってしまったんだ、私の味わっている苦難や不条理をちゃんと裁くことを忘れてしまわれたのだ、と断言してしまって神に何も期待しなくなることです。
イザヤ書40章は、後で読む44章もそうですが、イスラエルがバビロニアに滅ぼされて、バビロンに連れていかれたバビロン捕囚中にイザヤが預かった預言の言葉です。捕囚は数え方によりますが50年~70年続きました。その時期の預言です。イスラエルの人たちが、国が破れて神に期待しなくなった時代の預言です。28節には「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶ全てのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究め難い」。神様の自己宣言の言葉です。「倦むことなく」の「倦む」は、同じ状態が長く続いて嫌になることです。ですから「倦むことなく」というのは、神様は倦まずたゆまず罪深いイスラエルの民に関わっておられるのです。そして「疲れることなく」、神様ですから当然の事なのですが…、人々は断言までするほどに諦めてしまった。神様は我々と関り救ううことについて「倦んでしまった、疲れてしまったんだ」と。
これが不信仰です。この不信仰は裁かれねばなりませんね。イスラエルの民は悔い改めねばなりませんね。イザヤの預言はそのようにイスラエルの民を信仰へと導く言葉です。
そして人々に夢・幻を語る。29節以下、「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。
ヨハネ黙示録も同じです。キリスト教徒たちは、それまでユダヤ教徒からも嫌がらせを受け、そして当時はローマ帝国から受ける迫害も激しくなってきた。その頃まだ活動していた小アジアの7つの教会に対し、信仰とそれに基づく希望を失わない様にと励ます文章です。
ヨハネ黙示録1章1節「イエス・キリストの黙示」。啓示と訳しても良いのですが、迫害者には黙して分からないように示している表現している啓示、というニュアンスがありましょう。その内容は「すぐにも起こるはずのこと」と言っています。それは迫害者が滅びるということです。別の言い方で主イエスもこう言われました。「天地は滅びる、過ぎ去る。しかし私の言葉は滅びない。永遠に残る」。そして「私の言葉」の中に、私たちに対する救いの宣言の言葉があり、歴史の完成の言葉があるのです。そして黙示録は「すぐにも起こるはずのこと」を言い換えて、「時が迫っている。今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現します。救いの言葉を携えるキリストがやがて来られる訳です。だから、神は倦んでしまわれたとか、疲れてしまわれたとか、神に何も期待もしなくなった不信仰を抱くのではなくて、しっかり信じて、希望を持とう。夢を持とう。
先月の教会修養会の折「教会の夢と幻」の題の下、こう申し上げました。神様の描く夢と幻はでかく大きい、それに比べれば人間の描く思いはちっぽけだ、だから遠慮なく大ぼらを吹こうと申し上げました。不真面目に聞こえた方もおられるかもしれません。そこでもう少し品よく言いますと、ほらを吹く、それはファンタジーを描くということです。国語辞典で引くとファンタジーというのは、まず最初に出てくるのが「空想、幻想」、そして次に出てくるのが「形式に捉われず、作者の幻想を盛り込んだ楽曲、幻想曲、ファンタジア」とありました。形式に捉われないというのが面白い。常識に捉われないと言ってもいい。誰かが「私はこういうことをやってみたいんだ」と言ったとします。すると「そんなこと出来る訳がない、常識で考えればわかるだろう」と言って夢も幻も潰していく。思えば自分に対しても、いつも夢と幻のぶち壊しをしているかもしれませんね。
黙示録は音楽で言えば幻想曲・ファンタジアです。それを映像にして見せられたのがヨハネです。2節「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見た」。そしてヨハネはその「見た全てのことを証しした」。見た映像を言葉にして証しした。それが黙示録です。形式に捉われない映像とそれを証しする言葉ですから、常識に捉われて読もうとしたら訳が分からない言葉になります。黙示録は信仰のファンタジーとして読むと分かって来る。
先程のイザヤ書の言葉もファンタジーです「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。もしこの御言葉を、もう自分は90歳を超えて、歩くだけで疲れてしまって、走るなんてもうとてもとても、まして新たな力を得、鷲のように翼を張って上るなんて、何これ? なんて常識と現実に捉われて読んでしまったら、それこそ夢も希望も消えてしまう。そうではなくて3節「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸い」なんです。
4節から6節は、前半は「キリストから恵みと平和があなた方に」という祝福、後半はキリストに対する頌栄です。
前半の祝福は、アジア州にある七つの教会へに贈られます。2章以下読んでいきますと分かることですが、7つの教会、みんな課題を抱えています。でも、祝福を受けます。誰から? 後ろから読みますと「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリストから」。それから「玉座の前におられる七つの霊から」。聖霊の事です。聖霊が7つの教会夫々に相応しく7つの霊となってということでしょう。
そして「今おられ、かつておられ、やがて来られる方から」。やがて来られるこの方は、キリストの再臨と考えればキリストのことになりますが、父なる神様と考えることも出来ます。そうなると三位一体の神をここで表現しているということになります。父なる神様は、今、聖霊においてご自分を現し、かつてキリストにおいてご自分を現し、やがて父なる神御自身が来られる。
この三位一体の神様から祝福を戴きます。
後半の頌栄ですが、こちらはキリストに対する頌栄です。「私たちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」です。十字架にかかれて贖いの業をして下さったキリストです。
そして「私たちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司として下さった方」です。面白いことに、前半では地上の王たちの支配者と謳われたキリストが、後半のこちらでは「私たちを王と」して下さる。そして「御自身の父である神に仕える祭司として下さ」る。ここを読みルターの『キリスト者の自由』の言葉を思い起こします。「キリスト者は全ての者の上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。キリスト者は全ての者に奉仕する僕であって、何人にも従属する」。私たちキリスト者は、一方でキリストとその真理以外全てのものから自由である王、君主であり、他方で、祭司として全ての者を愛し全ての者に仕えることへ自由である僕でです。
ルターが見、ヨハネが見た私たち自身の姿です。これは現実の姿でしょうか、それともまだファンタジーの姿ですか。いずれにせよ、私たちをそのようにして下さるキリストへの頌栄を謳います。
次の7節、ヨハネが黙示として見たファンタジーの世界、「見よ、その方が雲に乗って来られる。全ての人の目が彼を仰ぎ見る、殊に、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」。雲に乗って来られるキリストの再臨の様子です。 その時、全ての人の目が彼を仰ぎ見ます。再臨のキリストの手と脇腹には十字架の傷跡があります。かつてキリストを突き刺した者どもさえもキリストを仰ぎ見ます。更に地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲します。キリストを十字架にかけた不信仰を思い嘆き悲しみます。でもそれはキリストを突き刺したかつてあの時の者どもだけではありません。地上の諸民族は一人も漏れることなく皆です。私たちもそこに入りますね。かつて地上では不信仰であった諸民族が、やがて来るその時には、やがて来るそのお方の前で、自らの不信仰を思い、嘆き悲しみ、悔い改めます。そして「然り、アーメン」と唱えます。
そして最後に8節「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『私はアルファであり、オメガである』」。これはイザヤ書44章6節の言葉とも響き合います。
「イスラエルの王である主、イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。私は初めであり、終わりである。私を置いて神はない」。
アルファはアルファベットの最初の文字、英語で言うとA、オメガは終りの文字、英語で言うとZ。これは初めと終わりだけ言って中間が無いという事ではありません。その意味はアルファからオメガに至るまで全部、初めから終わりに至るまで全てという意味です。
神様が初めであり、終わりであられるなら、私たちもです。松谷先生が御著書「ウェストミンスター礼拝指針」の冒頭にこうお書きになっています。「イエス・キリストにおいてご自身を余す所なく啓示された三位一体のまことの神を礼拝することは、私たちキリスト者にとって初めであり終わりです」。私たちは「主よ、あなたを置いて神はありません」と全身全霊を以て応答するのです。
終末においては、全ての全てが、「私を置いて神はない」という、この世にあってはファンタジーに見えたものが、やっぱり本当だったと現実になります。十字架のキリストが私たちの全ての罪を贖って下さった、という十字架の意味が、この世ではファンタジーに見えたかもしれないけれども、やっぱり本当だった、と、地上の諸民族は皆、私たちも含めて、万民・万物が「然り、アーメン」と言って主をたたえるのであります。地上のキリスト者だけではない「万民・万物」が礼拝をささげるこの新しい天と地でのファンタジーを、黙示録は描き出してやまないのです。