日本キリスト教団河内長野教会

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説教集

SERMONS

2026年3月1日 説教:森田恭一郎牧師

「人生に恵みあった、と見出せば」

イザヤ四三・一
ルカ 一〇・一七~二〇

先週はエフェソ書から 「あなた方の救われたのは恵みによるのです」(エフェソ二・六)。特に例として挙げたのは洗礼を受けようと考える時に、自分が何か立派にならなければならないと、自分軸を中心にした思いではなく、恵みを以て救って下さるキリストを軸にすることが大切だと語りました。エフェソ書はその初めの所で、天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました(エフェソ一・四)と語っていますが、天地創造の前ですから、私たちがこの地上に生まれてからの良し悪し、自分軸に関係ない、私たちの側に良い所があるから選ばれたというのでは全くない、恵みによって選ばれたということですね。キリストにおいてお選びになりました、と語ってキリストの側に軸を置くこと、キリストの十字架とお甦りというキリストの側の出来事において救いが実現している、このことに思いを向ける大切さをかたりました。

 

本日の招きの詞として読んで戴いた聖句がこう記しています。胎児であった私をあなたの目は見ておられた。私の日々はあなたの書に全て記されている。まだその一日も造られない内から(詩編一三九・一六)。胎児であった時から神様は眼差しを向けておられた訳ですが、まだその一日も造られる前から、とありますからエフェソ書のように語るなら、天地創造の前に、ということでしょう。

また、私の日々はあなたの書に全て記されている、という表現は、生まれてから後の人生の日々、とも読めますが、別の聖書の訳ではこう表現しています。胎児の私をあなたの目は見ていた。全てはあなたの書に記されている。形づくられた日々の、まだその一日も始まらない内から(聖書協会共同訳)。自分という存在が形づられた日々の一日も始まらない内から、自分はあなたの書に記されている。天地創造の前に自分の存在はあなたの書に書き記されて、あなたの愛のお心の内に記憶されていて、母の胎内に宿ってから、神様が「私の記憶、私の愛の心の内にある通りに命を授けたぞ、私の愛の心の内にある通りに生まれていくんだぞ」と眼差しを注いでおられる、というのですね。

 

そして今日のルカ福音書は、主イエスのお言葉を記録に残してくれています。あなた方の名が天に書き記されていることを喜びなさい(ルカ一〇・二〇)。 あなた方の名は天地創造の前から書き記されているが、今も、そして永遠に記されいていることを喜びなさい。

この場面は、主イエスが弟子たちを伝道にお遣わしになり(ルカ一〇・一)、弟子たちが戻って来てその成果を主イエスに報告した場面です。弟子たちは誇らしげに言う。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえも私たちに屈服します」(ルカ一〇・一七)。弟子たちは自分の人生の成果を報告している。その軸は自分にあるようです。それに対して主イエスは言われました。「悪霊があなた方に服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい」。

悪霊が自分たちに従ったという自分軸より、神様があなた方の名を天に書き記して下さっている、つまり神様に軸を置く、ここに確かな喜びがある、と主イエスは語っておられます。これは地上の人生が終わった後にも通用するのではありませんか。

 

話を元に戻すようですが、日頃、生まれる前のことに思いを向けることはありません。でも生まれる前のことは聖書を通して与えられる信仰の知識、そして信仰の確信になります。天地創造の前から確かな神の愛は、例えば、自分が生まれながらの障がい者であるとき、それ故に呪われて生まれて来たというのではないということを確信させてくれます。むしろ神様からの祝福の中にいることになりますね。障がい者を出産した母親にとっても同じです。

あるいは、生まれる前だけではありません。自分の人生を振り返って「自分の人生は不幸続きだった」と思えるような場合でも同じですね。不幸丸抱えのまま、自分は神の恵み、その選びの中にあると確信して良いし、敢えて言えば、恵みを確信しなければならない。

先日ある新聞で、高山右近の記事がありました。秀吉から「秀吉とデウスのどちらを選ぶのか」と踏み絵を踏まされて、キリシタン大名の彼は信仰を貫徹した。その結果、最終的にはフィリピンに島流しになる。フィリピンに就航する時に彼が人生を振り返って吐露した言葉が「六十年の人生の労苦がたちまち散るようだ」。ある人は右近の言葉を評して「『最後の最後、俺はこれで良かったんかなあ』と右近はずっと悩んでいたんですよ」。右近の悩んでいた事柄は面従腹背して秀吉に従っていれば良かったという後悔でしょうか? なるほど人は人生を「あれで良かったかなあ」と振り返ることはたくさんあるでしょう。振り返って、生きてきた意味を考える。感謝や後悔、謝罪や赦罪……。

でも、どのような人生であったとしても、十字架にかかられたキリストが、私たちに罪の赦しの宣言をしておられる、また、死人の内から甦られたキリストが、私たちの人生を生きた私たち一人ひとりををしっかり受け取って、永遠の命の確かさを約束しておられる。その希望と平安を見失ってはいけません。私たちの終局は永遠の生命です。

 

今日、私はこの後、大阪教区南地区の信徒集会に出かけます(私たちのこの地域は河南地区)。主題は「天の故郷(ふるさと)を目指して」です。教区高齢者特別委員会では、人生の終わりを見据えてのパンフレットを作りました。目次は二部から成っていて、第一部は「天の故郷への旅立ちノート」で葬儀を念頭に教会への願いと自分の信仰っを記す部分、第二部は治療や死後の相続などを巡る、いわゆるエンディングノートの部分です。

これらのこと、特に第一部の部分を記す作業は、結局、信仰の確かさを再確認していく営みです。生まれる前から、そして地上の人生を終えた後も、キリストが自分の名を覚えていて下さっている、この救いの確かさを再確認していくことです。

キリストが私たちの名前を心の内に覚えておられる天地創造の前と、キリストが私たちの名前を忘れることなく憶えていて下さる人生の終わりの後、その両者の間に挟まれた地上の人生、この人生も私たちの名前を神様はキリストにおいてお忘れになることはありません。ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ(イザヤ四三・一)。

ノートに記すかどうかはともかく、私たちは礼拝において受け取るみ言から、キリストの側に軸がある、主の恵みと人生の意味と確かなこととして知ることが出来ます。

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